の上の奥深きお方々が、野辺に咲く四季の花をごらんになる事が少いので、深山の松かしわを、取り寄せて、生きてあるままの姿を御眼の前に眺《なが》めてお楽しみなさるためにはじめた事で、わしたち下々の者が庭の椿《つばき》の枝をもぎ取り、鉢植《はちう》えの梅をのこぎりで切って、床の間に飾ったって何の意味もないじゃないですか。花はそのままに眺めて楽しんでいるほうがいいのだ。」言う事がいちいち筋道がちゃんと立っているので親爺は閉口して、
「やっぱり角力が一ばんいいかねえ。大いにおやり。お父さんも角力がきらいじゃないよ。若い時には、やったものです。」などと、どうにも馬鹿らしい結果になってしまった。お内儀は親爺の無能を軽蔑《けいべつ》して、あたしならば、ああは言わない、と或る日、こっそり才兵衛を奥の間に呼び寄せ、まず華やかに、おほほと笑い、
「才兵衛や、まあここへお坐《すわ》り。まあたいへん鬚《ひげ》が伸びているじゃないか、剃《そ》ったらどうだい。髪もそんなに蓬々《ぼうぼう》とさせて、どれ、ちょっと撫《な》でつけてあげましょう。」
「かまわないで下さい。これは角力の乱れ髪と言って粋《いき》なものなんです。」
「おや、そうかい。それでも粋なんて言葉を知ってるだけたのもしいじゃないか。お前はことし、いくつだい。」
「知ってる癖に。」
「十九だったね。」と母は落ちついて、「あたしがこの家にお嫁に来たのは、お父さんが十九、お母さんが十五の時でしたが、お前のお父さんたら、もうその前から道楽の仕放題でねえ、十六の時から茶屋酒の味を覚えたとやらで、着物の着こなしでも何でも、それこそ粋でねえ、あたしと一緒になってからも、しばしば上方へのぼり、いいひとをたくさんこしらえて、いまこそあんな、どっちを向いてるのだかわからないような変な顔だが、わかい時には、あれでなかなか綺麗《きれい》な顔で、ちょっとそんなに俯向《うつむ》いたところなど、いまのお前にそっくりですよ。お前も、お父さんに似てまつげが長いから、うつむいた時の顔に愁《うれ》えがあって、きっと女には好かれますよ。上方へ行って島原《しまばら》などの別嬪《べっぴん》さんを泣かせるなんてのは、男と生れて何よりの果報だろうじゃないか。」と言って、いやらしくにやりと笑った。
「なんだつまらない。女を泣かせるには殴るに限る。角力で言えば張手《はりて》というやつだ。
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