て、死んだ振りをしているであろう、この一歩金一つでもあれば、せめて三、四人の借金取りの笑顔を見る事は出来るのに、思えば、馬鹿な事をした、と後悔やら恐怖やら焦躁《しょうそう》やらで、胸がわくわくして、生きて居られぬ気持になり、
「ああ、めでたい。婆の占いが、男の子とは、うれしいね。なかなか話せる婆ではないか。」
とかすれた声で言ってはみたが、蕾は、ふんと笑って、
「お酒でもうんと飲んで騒ぎましょうか。」と万事を察してお銚子《ちょうし》を取りに立った。
客はひとり残されて、暗憺《あんたん》、憂愁、やるかたなく、つい、苦しまぎれのおならなど出て、それもつまらない思いで、立ち上って障子をあけて匂《にお》いを放散させ、
「あれわいさのさ。」と、つきもない小唄《こうた》を口ずさんで見たが一向に気持が浮き立たず、やがて、三十九歳の蕾を相手に、がぶがぶ茶碗酒《ちゃわんざけ》をあおっても、ただ両人まじめになるばかりで、顔を見合せては溜息《ためいき》をつき、
「まだ日が暮れぬか。」
「冗談でしょう。おひるにもなりません。」
「さてさて、日が永い。」
地獄の半日は、竜宮《りゅうぐう》の百年千年。うで卵のげっぷばかり出て悲しさ限りなく、
「お前さんはもう帰れ。わしはこれから一寝入りだ。眼が覚めた頃には、お産もすんでいるだろう。」と、いまは、わが嘘にみずから苦笑し、ごろりと寝ころび、
「本当にもう、帰ってくれ。その顔を二度とふたたび見せてくれるな。」と力無い声で歎願《たんがん》した。
「ええ、帰ります。」と蕾は落ちついて、客のお膳《ぜん》の数の子を二つ三つ口にほうり込み、「ついでに、おひるごはんを、ここでごちそうになりましょう。」と言った。
客は眼をつぶっても眠られず、わが身がぐるぐる大渦巻《おおうずまき》の底にまき込まれるような気持で、ばたんばたんと寝返りを打ち、南無阿弥陀《なむあみだ》、と思わずお念仏が出た時、廊下に荒き足音がして、
「やあ、ここにいた。」と、丁稚《でっち》らしき身なりの若い衆二人、部屋に飛び込んで来て、「旦那、ひどいじゃないか。てっきり、この界隈《かいわい》と見込みをつけ、一軒一軒さがして、いやもう大骨折さ。無いものは、いただこうとは申しませんが、こうしてのんきそうに遊ぶくらいのお金があったら、少しはこっちにも廻してくれるものですよ。ええと、ことしの勘定は、」と言
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