日目に、川筋三百間、鍬打ち込まぬ方寸の土も無くものの見事に掘り返し、やっと銭九文を拾い集めて青砥と再び対面した。
「下郎、思い知ったか。」
 と言われて浅田は、おそるるところなく、こうべを挙げて、
「せんだって、あなたに差し上げた銭十一文は、私の腹掛けから取り出したものでございますから、あれは私に返して下さい。」と言ったとやら、ひかれ者の小唄《こうた》とはこれであろうかと、のちのち人の笑い話の種になった。
[#地から2字上げ](武家義理物語、巻一の一、我が物ゆゑに裸川)
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   義理

 義理のために死を致す事、これ弓馬の家のならい、むかし摂州伊丹《せっしゅういたみ》に神崎式部という筋目正しき武士がいた。伊丹の城主、荒木村重《あらきむらしげ》につかえて横目役を勤め、年久しく主家を泰山の安きに置いた。主家の御次男、村丸という若殿、御総領の重丸のよろず大人びて気立やさしきに似ず、まことに手にあまる腕白者にて、神崎はじめ重臣一同の苦労の種であったが、城主荒木は、優雅な御総領よりも、かえってこの乱暴者の御次男を贔屓《ひいき》してその我儘《わがまま》を笑ってお許しになるので、いよいよ増長し、ついに或《あ》る時、蝦夷《えぞ》とはどのような国か、その風景をひとめ見たい、と途方もない事を言い出し、家来たちがなだめると尚更《なおさら》、図に乗って駄々《だだ》をこね、蝦夷を見ぬうちはめしを食わぬと言ってお膳《ぜん》を蹴飛《けと》ばす仕末であった。かねて村丸贔屓の城主荒木は、このたびもまた笑って、よろしい、蝦夷一覧もよかろう、行っておいで、若い頃の長旅は一生の薬、と言って事もなげにその我儘の願いを聞き容《い》れてやった。御供は神崎式部はじめ、家中粒選《かちゅうつぶよ》りの武士三十人。
 そのお供の人数の中に、二人の少年が、御次男のお話相手として差加えられていた。一人は神崎勝太郎とて十五歳、式部の秘蔵のひとり息子で容貌《ようぼう》華麗、立居振舞い神妙の天晴《あっぱ》れ父の名を恥かしめぬ秀才の若武者、いまひとりは式部の同役森岡丹後の三人の男の子の中の末子丹三郎とて十六歳、勝太郎に較《くら》べて何から何まで見劣りして色は白いが眼尻《めじり》は垂れ下り、唇《くちびる》厚く真赤で猪八戒《ちょはっかい》に似ているくせになかなかのおしゃれで、額の面皰《にきび》を気にして毎朝ひそかに軽石
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