ゃる途中、お寺の前であたしと逢《あ》い、非人に施せといって二文あたしに下さいました。」
「うん、そうであった。忘れていた。」
青砥は愕然《がくぜん》とした。落した銭は九文でなければならぬ筈であった。九文落して、十一文川底から出て来るとは、奇怪である。青砥だって馬鹿ではない。ひょっとしたら、これはあの浅田とやらいうのっぺりした顔の人足が、何かたくらんだのかも知れぬ、と感附いた。考えてみると、手でさぐるよりも足でさぐったほうが早く見つかるなどというのもふざけた話だ。とにかく明朝、あの浅田とやらいう人足を役所に呼び出し、きびしく糺明《きゅうめい》してやろうと、頗《すこぶ》る面白《おもしろ》くない気持でその夜は寝た。
詐術《さじゅつ》はかならず露顕するもののようである。さすがの浅田も九文落したのに十一文拾った事に就いて、どうにも弁明の仕様が無かった。青砥は烈火の如く怒り、お上をいつわる不届者め、八つ裂きにも致したいところなれども、川に落した九文の銭の行末も気がかりゆえ、まずあれをお前ひとりで十年でも二十年でも一生かかって捜し出せ、ふたたびあさはかな猿智慧《さるぢえ》を用い、腹掛けなどから銭を取出す事のないように、丸裸になって捜し出せ、銭九文のこらず捜し出すまでは雨の日も風の日も一日も休む事なく河原におもむき、下役人の監視のもとに川床を残りくまなく掘り返せ、と万雷一時に落ちるが如き大声で言い渡した。真面目な人が怒ると、こわいものである。
その日から浅田は、下役人の厳重な監視のもとに丸裸となって川を捜した。十日目に一文、二十日|経《た》って一文、川の柳の葉は一枚残らず散り落ち、川の水は枯れて蕭々《しょうしょう》たる冬の河原となり、浅田は黙々として鍬《くわ》をふるって砂利を掘り起し、出て来るものは銭にはあらで、割れ鍋《なべ》、古釘《ふるくぎ》、欠《か》け茶碗《ぢゃわん》、それら廃品がむなしく河原に山と積まれ、心得顔した婆がよちよち河原へ降りて来て、わしはいつぞやこの辺に、かんざしを一つ落したが、それはまだ出て来ませんか、と監視の下役人に尋ね、いつごろ落したのだと聞かれて、はっきりしませんが、わしがお嫁入りして間もなくの事だったから、六、七十年にもなりましょうか、と言って役人に叱られ、滑川もいつしか人に裸川と呼ばれて鎌倉名物の一つに数え上げられるようになった頃、すなわち九十七
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