。」
ポロ。「いや、ハムレットさま、失礼ながら、まだお若い。もし此のこころみに依《よ》って、王さまに何のうしろ暗いところも無かったという事が、わかったら、わしたちは申す迄も無くデンマークの国民ひとしく、ほっと安堵《あんど》の吐息をもらし、幸福な笑顔が城中に満ちるでしょう。正義は必ずしも、人の非を挙げて責めるものではなく、ある時には、無実の罪を証明してその人を救ってやるものです。ポローニヤスは、その万一の幸福な結果をも期待しているのです。万一! 万一、そんな結果になったら、ああ、それは奇蹟《きせき》に近い、いや、しかし、まあ、とにかく、やってみましょう。その後の事は、ポローニヤスに任せて下さい。決して悪いようには致しません。」
ハム。「ポローニヤス、一生懸命だね。可哀想に。僕には、みんなわかっているよ。ああ、いやだ。叔父さんが、たといどんな事をしていたって、かまわないじゃないか。叔父さんは、叔父さんの流儀で精一ぱいに生き伸びているだけなんだ。僕の気持は、どうやら、くるりと変ったようだ。けさまで、あんなに叔父さんを悪く言い、あの、いまわしい噂の根元を突きとめなければなんて騒ぎ立てていたのだが、ポローニヤス、あれは、あなたに見事ぐさりと突かれたように、醜聞の風向きを変えるためだったのかも知れぬ。やっぱりてれ隠しの道具に使っているだけの事だったのかも知れぬ。先刻、あなたから、たしかな証拠が、残念ながらありますと言われて、急に叔父さんを可哀想になってしまった。可哀想だ。叔父さんは精一ぱいなのだ。叔父さんは、そんな、馬鹿な、悪い事の出来る人じゃない。叔父さんは、僕以上に弱い人なんだ。一生懸命に努めているのだ。ああ、僕は馬鹿だ。叔父さんを冗談にも一時、疑っていたなんて、僕はおっちょこちょいの、恥知らずだ。ポローニヤス、もう正義ごっこは、やめにしようよ。この軽薄な遊戯が、どんな恐ろしい結果になるか、ああ、その恐ろしい結果を考えると、生きて居られない気持がする。」
ポロ。「どうも、あなたは大袈裟《おおげさ》でいけません。けさほどは、くるしいとい言葉の連続、ただいまは、可哀想の連発。どこで教えられて来たのか、ひとつ覚えみたいに、連発していらっしゃる。世の中は、情緒だけのものじゃありません。正義と、意志です。立派に生き果すためには、憐憫《れんびん》や反省は大の禁物。あなたは、オフィリヤの事だけを考えて居れば、それでいいのです。ハムレットさまに較べると、ホレーショーどのなんかは、淡泊で無邪気で、本当に青年らしい単純な夢の中で生きています。少しは見習いなさいよ。ホレーショーどのは、もう、此の朗読劇の底の魂胆を忘れてしまったかのように、ただただ、芝居をするという事の嬉《うれ》しさに浮かれ、あんなに熱心に稽古をしていたじゃありませんか。あれでいいのです。あなたは、台詞の稽古は充分ですか。間もなくお客さまたちが、ここへお見えになりますよ。ホレーショーどのが、いま皆さまをお誘い申しにあがったのです。あのひとは、たいへんな張りきりかたですね。内心は、花嫁の役のほうをやりたかったらしいんですけど、あの役は、わしでなければ、うまく出来ない。おや、もうお客さまたちが、やって来たようです。」
王。王妃。侍者数名。ホレーショー。ポローニヤス。ハムレット。
王。「やあ、今夜はお招きを有難う。ホレーショーが、ウイッタンバーグ仕込みの名調子を聞かせてくれるというので、皆を連れて拝聴にまいりました。ほんの近親の者たちばかりで、こういう催しをするのは、実にたのしいものですね。一家|団欒《だんらん》というものが、やっぱり人生の最高の幸福なのかも知れない。わしには、このごろ、たのしい事がなくなりました。人生は、どうも重苦しい事ばかりです。本当に、今夜は有難う。ハムレットも、きょうは元気のようですね。親友のホレーショーと遊んでいると機嫌《きげん》もなおるものと見える。これからは時々こんな催し事をするがよい。ハムレットの気も晴れるでしょう。」
ポロ「はい、実は、わしもその積りで、としを忘れて青年の劇団に加入させてもらいました。まず、此のたびの御即位と御婚儀のお祝いのため、つぎには、ハムレットさまのお気晴し、最後に、ホレーショーどのの外国仕込みの発声法|御披露《ごひろう》のため、この発声法は又、格別に見事なもので。」
ホレ。「ひやかしちゃ困ります。発声法などと言われては、かえって声が出なくなります。さあ、王妃さま、どうぞ。観客席はそちらでございます。どうぞ、お坐《すわ》り下さいまし。」
王妃。「足もとから鳥が飛び立つように、朗読劇なんか、どうしてはじめる事にしたのでしょう。ハムレットの気まぐれか、ポローニヤスの悪智慧か、ホレーショーは、いい加減におだてられて使われているようですし、何にしても合点のゆかぬ事ですね。」
王。「ガーツルード。芝居の通人《つうじん》は、そんなわかり切った事は言わぬものです。さあ、皆もお坐り。うむ、なかなか舞台もよく出来た。ポローニヤスの装置ですか。意外にも器用ですね。人は、それでも、どこかに取柄《とりえ》があるものだ。」
ポロ。「たしかに。いまに、もっと器用なところを御覧にいれます。さて、それでは、ハムレットさま、舞台へあがりましょう。ホレーショーどのも、どうぞ。」
ハム。「アルプスの山よりも、高いような気がする。断頭台に、のぼるか、よいしょ。」
ホレ。「初演の時は、どなたでも舞台が高くて目まいがします。僕は、三度目だから大丈夫。あ! 足が滑った。」
ポロ。「ホレーショーどの、気を附けて下さい。空箱《あきばこ》を寄せ集めて作ったのですから、でこぼこがあるのです。では、皆さま。わたしたち三人、これこそは正義の劇団。こよいは、イギリスの或《あ》る女流作家の傑作、『迎え火』という劇詩を演出して御覧にいれまする。不馴《ふな》れの老爺《ろうや》もまじっている劇団ゆえ、むさくるしいところもございましょうが御海容《ごかいよう》のほど願い上げます。ホレーショーどのは、外国仕込みの人気俳優、まず、御挨拶《ごあいさつ》は、そちらから。」
ホレ。「え? 僕は、その、何も、いや、困ります。僕は、ただ、花聟《はなむこ》の役を演じてみたいと思っているだけなのです。」
ポロ。「かく申す拙者は、花嫁の役を演じ上げます。」
王妃。「気味が悪い。ポローニヤスどのは、お酒に酔っているらしい。」
王。「酒どころか。もっと、ひどい。あの眼《め》つきを見なさい。」
ハム。「僕は、亡霊の役だそうです。ポローニヤス、早くはじめたら、どうですか。観客が、酔っぱらい劇団だと言っていますよ。」
ポロ。「なに、酔ってないのは、わしだけさ。ばかばかしいが、はじめましょう。では、皆さま。」
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花嫁。(ポローニヤス。)
恋人よ。やさしいおかた。しっかり抱いて下さいませ。
あの人が、あたしを連れて行こうとします。
ああ、寒い。
松かぜの音のおそろしさ。この冷たい北風は、あたしのからだを凍らせます。
遠い向うの、
遠い向うの、
森のかげから、ちらちら出て来た小さいともし火。
あれは、あたしの迎え火です。
花聟。(ホレーショー。)
おお、抱いてやるとも、私の小鳩《こばと》。
向うの森のあたりには、星がまばたいているだけだ。
あやしい者は、どこにもいない。
朔風《きたかぜ》の勁《つよ》い夜には、星の光も、するどいものです。
亡霊。(ハムレット。)
もし、
もし。
花嫁さん。
一緒においで。よもや、わしを、見忘れた筈《はず》はあるまい。
わしの声は、こがらし。わしの新居は泥《どろ》の底。
わしと一緒に来ておくれ。
氷の寝床に来ておくれ。
呼んでいるのは、私だよ。忘れた筈は、よもや、あるまい。
おいで、と昔ひとこと言えば、はじらいながら寄り添った咲きかけの薔薇《ばら》。
いまは、重く咲き誇るアネモネ。
綺麗《きれい》な嘘《うそ》つき。
おいで。
花嫁。(ポローニヤス。)
あなた。もっと強く抱いて!
あの人は、昔の影で、あたしを苦しめに来ています。
あの人は、冷たい指で、あたしの手頸《てくび》を掴《つか》んでいます。
ああ、あなた。しっかり抱いて下さいませ。あたしのからだが、あなたの腕から、するりと抜けて、あの森の墓地までふわふわ飛んで行きそうです。
あの松籟《まつかぜ》は、人の声。
ふとした迷いから、結んだ昔の約束を、絶えず囁《ささや》く。ひそひそ語る。
あなたもっと強く抱いて!
ああ、おろかしい過去のあやまち。
あたしは、だめだわ。
花聟。(ホレーショー。)
私が、ついている。
なくなった人のことを今更おそれるのは、不要の良心。
私が、ついている。
あやしい者は、どこにもいない。
風の音がこわかったら、しばらく耳をふさいでいなさい。
亡霊。(ハムレット。)
おいで。
耳をふさいでも、目をつぶっても、わしの声は聞える筈、わしの姿も見える筈。
行こう。
さあ、行こう。
むかしの約束のとおりに、わしはお前を大事に守ってあげるつもりだ。
お前の寝床の用意もしてある。醒《さ》めることの無い、おいしい眠りを与えてくれる佳《よ》い寝床だ。
さあ、おいで。
わしの新居は泥の底。ともかくも、ひたむきに一心不乱に歩いて、行きついた道の終りだ。
さあ、行こう。わし達の昔の誓いを果すのだ。
花嫁。(ポローニヤス。)
あなた。
もう、抱いてくださるには及びませぬ。だめなの。
こがらしの声のあの人は、無理矢理あたしを連れて行きます。
左様なら。
あたしがいなくなっても気を落さず、お酒もたんと召し上れ。ひなたぼっこも、なさいませ。
ああ、もう少し。もう一言《ひとこと》。
わかれの言葉も髪もキスも、なにも、あなたに残さずに、あたしは連れてゆかれます。
もう、だめなの。
あたしを忘れないで下さいませ。
亡霊。(ハムレット。)
むだな事だ。
そんな、いじらしい言葉は、むだです。
お前は、その花聟の心を知らぬ。
お前の愛するその騎士は、お前が去って三日目に、きっとお前を忘れます。
うつくしい、それゆえ脆《もろ》い罪のおんなよ。
お前は、やがてあの世で、わしがきょう迄《まで》くるしんだ同じ苦しみを嘗《な》めるのだ。
嫉妬《しっと》。
それがお前の、愛されたいと念じた揚句の収穫だ。
実に、見事な収穫だ。
いまに、その花嫁の椅子《いす》には、お前よりもっと若く、もっと恥じらいの深い小さい女が、お前とそっくりの姿勢で腰かけて、花聟にさまざまの新しい誓いを立てさせ、やがて子供を産むだろう。
この世では、軽薄な者ほど、いつまでも皆に愛されて、仕合せだ。
さあ、行こう。
わしとお前だけは、
雨風にたたかれながら、
飛び廻り、泣き叫び、駈《か》けめぐる!
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王妃。「よして下さい! ハムレット、いい加減に、およしなさい。これは一体、誰の猿智慧《さるぢえ》なんです? ばかばかしくて、見て居られません。どうせ、いやがらせをなさる積りなら、も少し気のきいた事でやって下さい。あなたがたは卑怯《ひきょう》です。陋劣《ろうれつ》です。私は、おさきに失礼します。なんだか、吐きそうになりました。」
王。「ちっとも怒る事は、ありません。面白いじゃないか。まだ、此《こ》のつづきもあるようです。ポローニヤスの花嫁は、お手柄《てがら》でした。もっと強く抱いて、と息《いき》をつめて哀願するところもよかったし、あたしは、だめだわと言って、がくりと項垂《うなだ》れるところなど、実に乙女の感じが出ていました。うまいものですね。」
ポロ。「お褒《ほ》めにあずかって、おそれいります。」
王。「ポローニヤス、あとで、わしの居間にちょっとおいでを願います。ハムレットは、台本に無い台詞《せりふ》まで言っていましたね。でも、なんだか熱が無かった。表情が投げやりでした。」
王妃。「私は、失礼いたします。こんな下手くその芝居は、ごめんです。ポローニヤスの花嫁には、海坊主の
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