ハム。「そうですか。どうも。」
 王。「君は、どうしてそうなんでしょう。わしが、ちょっとでも、むきになって何か言うと、すぐ、ぷんとして、そんな軽薄な返事をして、わしの言葉をはぐらかしてしまいます。」
 ハム。「叔父さん、いや、王こそ、僕のお願いを、はぐらかします。僕は、ウイッタンバーグへ行きたいんです。それだけなんです。」
 王。「本当ですか? わしは、それを嘘《うそ》だと思っています。だから、聞えぬ振りをしようと思っていたのです。大学へ、また行きたいというのは、君の本心ではありません。それは、口実にすぎません。君は、そんな事を言って、ただわしに反抗してみているだけなのです。わしだって知っています。若いころの驕慢《きょうまん》の翼は、ただ意味も無くはばたいてみたいものです。やたらに、もがきたいのです。わしはそれを動物的な本能だと思っています。その動物的な本能に、さまざま理想や正義の理窟《りくつ》を結びつけて、呻《うめ》いているのです。わしは断言できる。君は、よし先王が生きておいでになっても、きっと、いまごろは先王に反抗している。そうして、先王を軽蔑し、憎み、わからずやだと陰口をきき、先王を手こずらせているでしょう。そんな年ごろなのです。君の反抗は肉体的なものです。精神的なものではありません。いま君は、ウイッタンバーグへ行っても、その結果が、わしには、眼《め》に見えるようです。君は大学の友人たちから英雄のように迎えられるでしょう。旧弊な家風に反抗し、頑迷《がんめい》冷酷な義父と戦い、自由を求めて再び大学へ帰って来た、真実の友、正義潔白の王子として接吻《せっぷん》、乾盃《かんぱい》の雨を浴びるでしょう。でも、そのような異様の感激は、なんであろう。わしは、それを生理的感傷と呼びたいのです。犬が芝生に半狂乱でからだをこすりつけている有様と、よく似ていると思います。少し言いすぎました。わしは、その若い感激を、全部否定しようとは思いません。それは神から与えられた一つの時期です。必ずとおらなければならぬ火の海です。けれども人は一日も早く、そこから這《は》いあがらなければいけません。当りまえの事です。充分に狂い、焦《こ》げつき、そうして一刻も早く目ざめる。それが最上の道です。わしだって、君も知っているように決して聡明《そうめい》な人間ではありませんでした。いや、実に劣った馬鹿でした。いまでも、わしは、はっきり目ざめているとは言えません。けれども、わしは、君にだけは失敗させたくないと思っています。君は学友たちの、その場かぎりの喝采《かっさい》の本質を、調べてみた事がありますか。あれは、ふしだらの先輩を得たという安堵《あんど》です。お互いに悪徳と冒険を誇り合い、やがて薄汚い無能の老いぼれに墜落させ合うばかりです。わしは、わしの愚かな経験から君に言い聞ゥせているのです。わしは、永いあいだ放埒《ほうらつ》な大学生々活をして来ました。そうして、いまに残っているものは何でしょう。何もありません。ただ、いやらしい思い出です。呻くばかりの慚愧《ざんき》です。惰性の官能です。わしは、その悪習慣をもてあましました。いまだって、なおその処理にくるしんで居《お》ります。レヤチーズの場合は、ちがいます。あれには、出世という希望があります。出世という希望のあるうちは、人はデカダンスに落ちいる事はありません。君には、その希望がありません。落ちてみたい情熱だけです。君は既に三箇年間、大学の生活をして来ました。もう充分なのです。再び昔の学友たちと、あの熱狂を繰り返したら、こんどは取りかえしのつかぬ事になるかも知れません。少年の頃の不名誉の傷は、皆の大笑いのうちに容易になおりますが、二十三歳の一個の男子の失態の傷は、なまぐさく、なかなか拭《ふ》き取り難いものです。自重して下さい。大学生たちは、無責任な強烈な言葉で、君をそそのかすだけです。わしには、よくわかっています。さっき臣下の前では、わしは、他の理由で君の大学行きを止《と》めましたが、いや、たしかに、あの時申した事も重要な理由でしたが、それよりも、わしには、君のいまの驕慢の翼が心配だったのです。その翼の情熱の行方が心配だったのです。さっき臣下の前で申した事も、君には心掛けて置いてもらいたい、すなわち、わしの傍にいて実際の政治を見習うようにしてもらいたい、けれども、そんな政治上の思惑の他に、わしは君の父として、いや、愚かな先輩の義務として、君の冒険に忠告したかったのです。わしは君に、まことの父としての愛情が実感せられないとも言いましたが、けれども人間の義務感は、また別のものです。わしは、君の役に立ちたい。わしの愚かな経験から、やっと得た結論を、君に教えて、君を守りたいと思っているのです。君を立派に育てたいと念じているのです。そ
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