は、けさ眼が覚めたら、すっと胸がひらけて、ものの臭《にお》いも平気になりました。きのう迄《まで》は、自分のからだの匂《にお》いも、夜具やら、下着やらの臭いも、まるで韮《にら》のようで、どんなに香水を振りかけても、我慢が出来ず、ひとりで泣いて居りました。でも、けさは、悪い夢から覚めたように、すっとからだも軽くなり、スウプも、幾日ぶりかで本当においしかった。何かの拍子《ひょうし》に、また、きのう迄のあんな地獄の気分に落ちるのではないかと、まだ少し心配でございます。自分のからだが、こわれもののような気がして、はらはらしています。いまだって、おっかなびっくりで、なるべく静かに呼吸しながら一歩一歩、こわごわ芝生を踏んでいます。もう、大丈夫なのかしら。あんな、つらい思いを二度くりかえすのは、いやでございます。」
 王妃。「ええ、もう大丈夫ですとも。これからは、食慾《しょくよく》もすすむ一方です。本当に、あなたは、なんにもご存じないのですねえ。無理もない。これからは、私が相談相手になってあげてもよい。あなたは、さっきから何でも思ったとおりに、正直におっしゃるので、私は可愛くなりました。悪びれず、大胆に言う人を、私は好きです。」
 オフ。「いいえ、王妃さま。あたしは、きのう迄、嘘《うそ》ばかりついていましたの。ひとをだますという事ほど、くるしい、つらい地獄はございませぬ。でも、もう嘘をつく必要は無くなりました。みんなに知られてしまいました。からだの具合も、さいわい今朝から、こんなにすっきりして来ましたし、もうこれからは、いじけずに、昔のとおりにお転婆《てんば》なオフィリヤになるのです。本当に、此《こ》の二箇月、毎日毎日、意外な事ばかり続いて、ゆめのようでございます。」
 王妃。「なに、ゆめのような思いは、あなたばかりではありません。誰もかれも、此の二箇月間は、おそろしい夢を見ているような気持でした。先王がおいでなされた頃の平和は、いま考えると、まるで嘘のような気さえ致《いた》します。あんなに、お城の中も、またデンマークの国も、希望に満ちて一日一日を送り迎えしていたような時代は、もう二度と帰って来る事はありますまい。誰が、どうわるいというのでも無いのに、すっかり陰気に濁ってしまって、溜息と、意地悪い囁《ささや》きだけが、エルシノアの城にも、またデンマークの国中にも満ち満ちているような気がします。きっと、何か、ひどく悪い事が起る、悲惨な事が起る、というような、不吉な予感を覚えます。せめて、ハムレットだけでも、しっかりしていてくれるといいのですけれど、あの子は、あなたの事で半狂乱の様子ですし、他の人だって、自分の地位や面目の事ばかり心配して、あちこち走り廻っているような具合ですから、ちっとも頼りになりません。女も、浅墓なものですが、男のひとも、あんまり利巧とは言えませんね。あなた達には、まだ、わかっていないでしょうが、男のひとは、それは気の毒なくらい、私たちの事を考えているものなのですよ。そんなに、お笑いになっては、いけません。本当なんです。私は、自惚《うぬぼ》れて言っているわけではありません。男のひとは、口では何のかのと、立派そうな事を言っていながら、実のところはね、可愛い奥さんの思惑ばかりを気にして、生きているものなのです。立身も、成功も、勝利も、みんな可愛い奥さんひとりを喜ばせたい心からです。いろんな理窟《りくつ》をつけて、努力して居りますが、なに、可愛い女に、ほめられたいばかりなのです。だらしの無い話ですね。可哀想なくらいです。私は此の頃それに気がついて、びっくりしました。いいえ、がっかりしました。私は、男の世界を尊敬してまいりました。私たちには、とてもわからぬ高い、くるしい理想の中に住んでいるものとばかり思っていました。及ばずながら、私たちは、その背後で、せめて身のまわりのお世話でもしてあげて、わずかなお手伝いをしたいと念じていたのですが、ばかばかしい、その背後のお手伝いの女こそ、男のひとたちの生きる唯一《ゆいいつ》の目当《めあて》だったとは、まるで笑い話ですね。背後からそっとマントを着せてあげようとすると、くるりとこちらを向いてしまうのですから、まごついてしまいます。理zだの哲学だの苦悩だのと、わけのわからんような事を言って、ずいぶん空《そら》の高いところを眺《なが》めているような恰好《かっこう》をしていますが、なに、実は女の思惑ばかりを気にしているのです。ほめられたい、好かれたいばかりの身振りです。私には此の頃、男がくだらなく見えて仕様がありません。オフィリヤたちには、わからない事です。あなたなどには、まだ、ハムレットなんかが、いい男に見えて仕様がないのでしょうね。あの子は、馬鹿な子です。周囲の人気が大事で、うき身をやつしているのです
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