花聟。(ホレーショー。)

おお、抱いてやるとも、私の小鳩《こばと》。
向うの森のあたりには、星がまばたいているだけだ。
あやしい者は、どこにもいない。
朔風《きたかぜ》の勁《つよ》い夜には、星の光も、するどいものです。

亡霊。(ハムレット。)

もし、
もし。
花嫁さん。
一緒においで。よもや、わしを、見忘れた筈《はず》はあるまい。
わしの声は、こがらし。わしの新居は泥《どろ》の底。
わしと一緒に来ておくれ。
氷の寝床に来ておくれ。
呼んでいるのは、私だよ。忘れた筈は、よもや、あるまい。
おいで、と昔ひとこと言えば、はじらいながら寄り添った咲きかけの薔薇《ばら》。
いまは、重く咲き誇るアネモネ。
綺麗《きれい》な嘘《うそ》つき。
おいで。

花嫁。(ポローニヤス。)

あなた。もっと強く抱いて!
あの人は、昔の影で、あたしを苦しめに来ています。
あの人は、冷たい指で、あたしの手頸《てくび》を掴《つか》んでいます。
ああ、あなた。しっかり抱いて下さいませ。あたしのからだが、あなたの腕から、するりと抜けて、あの森の墓地までふわふわ飛んで行きそうです。
あの松籟《まつかぜ》は、人の声。
ふとした迷いから、結んだ昔の約束を、絶えず囁《ささや》く。ひそひそ語る。
あなたもっと強く抱いて!
ああ、おろかしい過去のあやまち。
あたしは、だめだわ。

花聟。(ホレーショー。)

私が、ついている。
なくなった人のことを今更おそれるのは、不要の良心。
私が、ついている。
あやしい者は、どこにもいない。
風の音がこわかったら、しばらく耳をふさいでいなさい。

亡霊。(ハムレット。)

おいで。
耳をふさいでも、目をつぶっても、わしの声は聞える筈、わしの姿も見える筈。
行こう。
さあ、行こう。
むかしの約束のとおりに、わしはお前を大事に守ってあげるつもりだ。
お前の寝床の用意もしてある。醒《さ》めることの無い、おいしい眠りを与えてくれる佳《よ》い寝床だ。
さあ、おいで。
わしの新居は泥の底。ともかくも、ひたむきに一心不乱に歩いて、行きついた道の終りだ。
さあ、行こう。わし達の昔の誓いを果すのだ。

花嫁。(ポローニヤス。)

あなた。
もう、抱いてくださるには及びませぬ。だめなの。
こがらしの声のあの人は、無理矢理あたしを連れて行きます。
左様なら。
あたしがいなくなっても気を落さ
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