も書けやしないのだから、くどくどと未練がましい申しわけを言うのはもうやめて、ただ「辞ハ達スル而已《ノミ》矣」という事だけを心掛けて、左顧《さこ》も右眄《うべん》もせずに書いて行けばいいのであろう。「爾《ナンジ》ノ知ラザル所ハ、人ソレ諸《コレ》ヲ舎《ス》テンヤ」である。
私が東北の片隅《かたすみ》のある小さい城下町の中学校を卒業して、それから、東北一の大都会といわれる仙台市に来て、仙台医学専門学校の生徒になったのは、明治三十七年の初秋で、そのとしの二月には露国に対し宣戦の詔勅《しょうちょく》が降り、私の仙台に来たころには遼陽《りょうよう》もろく陥落《かんらく》し、ついで旅順《りょじゅん》総攻撃が開始せられ、気早な人たちはもう、旅順陥落ちかしと叫び、その祝賀会の相談などしている有様。殊にも仙台の第二師団第四聯隊は、榴《つつじ》ヶ岡《おか》隊と称《とな》えられて黒木第一軍に属し、初陣の鴨緑江《おうりょっこう》の渡河戦に快勝し、つづいて遼陽戦に参加して大功を樹《た》て、仙台の新聞には「沈勇なる東北兵」などという見出しの特別読物が次々と連載せられ、森徳座という芝居小屋でも遼陽陥落万々歳というに
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