かったので、いきおい漢訳の新本にたよらざるを得なかった。「物競」も出た。「天択」も出た。蘇格拉第《ソクラテス》を知った。柏拉図《プラトー》を知った。斯多※[#「口+臈のつくり」、第3水準1−15−20]《ストイック》を知った。自分たちは手当り次第に何でも読んだ。当時、このような新書を手にする事は、霊魂を毛唐に売り渡す破廉恥《はれんち》至極の所業であるとされて、社会のはげしい侮蔑《ぶべつ》と排斥を受けなければならなかったが、自分たちは、てんで気にせず、平然とその悪魔の洞穴《どうけつ》探検を続けた。学校では、生理の課目は無かったが、木版刷の「全体新論」や「化学衛生論」を読んでみて、支那の医術は、意識的もしくは無意識的な騙《かた》りに過ぎない、という事をいよいよ明確に知らされた。このように、自分の心に嵐が起っているのと同様に、支那の知識層にも維新救国の思想が颱風《たいふう》の如く巻き起っていた。その頃すでに、独逸の膠州湾《こうしゅうわん》租借《そしゃく》を始めとして、露西亜《ロシア》は関東州、英吉利《イギリス》はその対岸の威海衛、仏蘭西《フランス》は南方の広州湾を各々租借し、次第にまたこれら
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