かし、周さんにはいまのところ、むつかしい思想の著述はおぼつかないので、まず民衆に対する初歩教育のつもりで文芸に着目し、ただいま世界各国の文芸を研究しています、なんて、そんな、先生にとっては全く寝耳に水のような実状を打明けたら、先生は、どんなに驚愕《きょうがく》し、また淋《さび》しいお気持になられるかと思えば、愚直の私も、さすがに言葉を濁《にご》さざるを得なかったのである。それでも私は、いちどだけ、周さんに先生の御心配をそれとなく伝言してみた事がある。
「こんど藤野先生から、研究のテエマをもらって、一緒にやってみませんか。纏足《てんそく》の骨形状など、面白いんじゃないでしょうか。」
 周さんは、幽《かす》かに笑って、首を振った。すでに、一さいを察しているようであった。その頃の周さんは、あの夏休み直後の、ひやりとするくらいの、へんに底意地の悪いような表情はしなくなっていたが、それでも、何か私たちと隔絶された世界に住んでいる人みたいに、たいていはただあいまいに微笑して、それに就いてまた、あの苦労性の津田氏など気をもんで、
「あいつ、どうかしているんじゃないか。下宿でも、つまらない小説本ばかり
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