、旅順陥落せざるうちにその大艦隊が日本に押寄せて来たらどうしようと心配のあまり、人皆うたがわしく見えて来て、周さんがひとりでこっそり松島へ出掛けて行ったのも、或《あるい》は露国《ろこく》のスパイとして、かの松島湾の深浅を測量し、もって露国の艦隊をここに導き入れ、仙台市の全滅をたくらんでいるのではなかろうかと、何が何やら、旅順が落ちないばかりのむしゃくしゃの八つ当りであの夜、私に説教したのだという。私はそれを聞いて内心大いに呆《あき》れたが、しかし、もういいのだ。勝ったから、いいのだ。戦いは、これだから、絶対に勝たなければならぬ。戦況ひとたび不利になれば、朋友相信じる事さえ困難になるのだ。民衆の心裡《しんり》というものは元来そんなに頼りないものなのだ。小にしては国民の日常倫理の動揺を防ぎ、大にしては藤野先生の所謂「東洋本来の道義」発揚のためにも、戦いには、どんな犠牲を払っても、必ず勝たなければならぬ、とその夜しみじみ思った。
旅順の要塞《ようさい》が陥落すると、日本の国内は、もったいないたとえだが、天の岩戸がひらいたように一段とまぶしいくらい明くなり、そのお正月の歌御会始の御製は、
前へ
次へ
全198ページ中118ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング