原始的な形式のままで、たくさんなのです。酒が阿片《あへん》に進歩したために、支那がどんな事になったか。エジソンのさまざまな娯楽の発明も、これと似たような結果にならないか、僕は不安なのです。これから四、五十年も経つうちには、エジソンの後継者が続々とあらわれて、そうして世界は快楽に行きづまって、想像を絶した悲惨な地獄絵を展開するようになるのではないかとさえ思われます。僕の杞憂《きゆう》だったら、さいわいです。」
 そんな事を語りながら、「油くさい」天ぷら蕎麦を、おいしく食べて、私たちは東京庵を出た。お勘定はその時、どっちが払ったか、津田氏の忠告に従ったか、どうだったか、そこまでは、さすがにいまは記憶していない。私はその夜、周さんを荒町の下宿まで送って行く事にした。
 月が出ていた。それは、間違いなく記憶している。風景のイムポテンツ同士も、月影にだけは無関心でなかったようである。
「僕は、子供の時分から芝居が好きで、」と周さんは静かに語った。「いまでもはっきり覚えていますが、毎年、夏になると母の故郷に遊びに出掛け、その母の実家から船で一里ばかり行ったところに村芝居の小屋がかかっていて、――」
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