かったので、いきおい漢訳の新本にたよらざるを得なかった。「物競」も出た。「天択」も出た。蘇格拉第《ソクラテス》を知った。柏拉図《プラトー》を知った。斯多※[#「口+臈のつくり」、第3水準1−15−20]《ストイック》を知った。自分たちは手当り次第に何でも読んだ。当時、このような新書を手にする事は、霊魂を毛唐に売り渡す破廉恥《はれんち》至極の所業であるとされて、社会のはげしい侮蔑《ぶべつ》と排斥を受けなければならなかったが、自分たちは、てんで気にせず、平然とその悪魔の洞穴《どうけつ》探検を続けた。学校では、生理の課目は無かったが、木版刷の「全体新論」や「化学衛生論」を読んでみて、支那の医術は、意識的もしくは無意識的な騙《かた》りに過ぎない、という事をいよいよ明確に知らされた。このように、自分の心に嵐が起っているのと同様に、支那の知識層にも維新救国の思想が颱風《たいふう》の如く巻き起っていた。その頃すでに、独逸の膠州湾《こうしゅうわん》租借《そしゃく》を始めとして、露西亜《ロシア》は関東州、英吉利《イギリス》はその対岸の威海衛、仏蘭西《フランス》は南方の広州湾を各々租借し、次第にまたこれらの諸国は、支那に於いて鉄道、鉱山などに関する多くの利権を得て、亜米利加《アメリカ》も、かねて東洋に進み出る時機をうかがっていたが、遂にその頃、布哇《ハワイ》を得て、さらに長駆東洋侵略の歩をすすめて西班牙《イスパニヤ》と戦い比律賓《フィリッピン》を取り、そこを足がかりにしてそろそろ支那に対して無気味な干渉を開始していた。もう、支那の独立性も、風前の燈火のように見えて来た。救国の叫びが、国内に充満するのも当然の事のように思われた。しかし、支那にとって不吉の事件が相ついで起った。戊戌《ぼじゅつ》の政変がその一つであり、さらに、その二年後に起った北清事変は、いよいよ支那の無能を全世界に暴露した致命的な乱であった。自分は翌年の十二月、礦路学堂を卒業したが、鉱山技師として金銀銅鉄の鉱脈を捜し出せる自信は無かった。自分がこの学校に入学したのは、鉱山技師になりたいからでは無かったのだ。現在の支那を少しでもよくしたいために、何か新しい学問を究《きわ》めてみたかったのだ。そうしてこの三年間、自分はこの学校において、鉱山の勉強よりも、西洋科学の本質を知ろうとして、そのほうの勉強ばかりして来たのだ。だからその時の自分には、卒業とは名ばかりで、実際は、鉱山技師の資格など全く無かったのである。自分も既に二十一歳になっていた。早く人生の進路を決定しなければならぬ。義和団《ぎわだん》の乱に依って清朝の無力が、列国だけでなく、支那の民衆にも看破せられ、支那の独立性を保持するには打清興漢の大革命こそ喫緊《きっきん》なれとの思想が澎湃《ほうはい》として起り、さきに海外に亡命していた孫文《そんぶん》は、すでにその政治綱領「三民主義」を完成し、之《これ》を支那革命の旗幟《きし》として国内の同志を指導し、自分たち洋学派の学生も大半はその「三民主義」の熱烈な信奉者となって、老憊《ろうぱい》の清国政府を打倒し漢民族の新国家を創造し、以《もっ》て列国の侵略に抗してその独立性を保全すべしと叫んで学業を放擲《ほうてき》し、直接革命運動に身を投ずる者も少くなかった。自分も、その風潮に刺戟せられて、支那の危急を救うためには、必ず或る種の革命が断行せられなければならぬと察照するに到ってはいたが、しかし、それには、列国の文明の本質をさらにもっと深く究明するのが何よりも緊急の事のように思われた。自分の知識は未だ幼稚である。ほとんど何も知らないと言ってよい。学業を捨て、いますぐ政治運動に身を投ずる者の憂国の至情もわかるが、しかし、究極の目標は同じであっても、自分の目下の情熱は、政治の実際運動よりも、列国の富強の原動力に対する探究に在った。それが科学であるとは、その頃、はっきり断定するに到ってはいなかったが、しかし、西洋文明の粋は、独逸国に行けば、最も確実に把握《はあく》出来るのではあるまいかという、おぼろげな見当をつけて、自分の生涯の方針も、独逸に留学する事に依って解決されるのかも知れないと考えた。しかし、自分は貧乏である。故郷を捨て、南京に出て来た事さえ精一ぱいであった自分が、さらに万里を踏破《とうは》して独逸国に留学するにはどうしたらよいか、まるで雲上の楼閣を望見するが如き思いであった。独逸国へ留学する事が絶望だとしたら、あますところは、もう一つの道しか無かった。日本へ行く事だ。その頃A政府が費用を出して、年々すこしずつの清国留学生を日本に送りはじめていたのである。その二、三年前に張之洞《ちょうしどう》の著した有名な勧学篇などにも、大いに日本留学の必要が力説されていて、日本は小国のみ、しかるに何ぞ興《おこ》
前へ
次へ
全50ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング