声を思い出すと、自分は抑え切れない激怒を感ずる。自分の少年の頃の無智に対する腹立たしさでもあり、また支那の現状に対する大きい忿懣《ふんまん》でもある。三年霜に打《うた》れた甘蔗、原配の蟋蟀、敗鼓皮丸、そんなものはなんだ。悪辣《あくらつ》なる詐欺《さぎ》と言ってよかろう。また、瀕死の病人の魂を大声で呼びとめるというのも、恥かしいみじめな思想だ。さらにまた、医は能く病いを癒すも、命を癒す能わず、とは何という暴論だ。恐るべき鉄面皮の遁辞《とんじ》に過ぎないではないか。舌は心の霊苗なり、とはどんな聖人君子の言葉か知らないが、何の事やらわけがわからぬ。完全な死語である。見るべし、支那の君子の言葉もいまは、詐欺師の韜晦《とうかい》の利器として使用されているではないか。自分たちは幼少の頃から、ただもう聖賢の言葉ばかりを暗誦《あんしょう》させられて育って来たが、この東洋の誇りの所謂《いわゆる》「古人の言」は、既に社交の詭辞《きじ》に堕し、憎むべき偽善と愚かな迷信とのみを※[#「酉+榲のつくり」、第3水準1−92−88]醸《うんじょう》させて、その思想の発生当初の面目をいつのまにやら全く喪失してしまっているのだ。どんな偉大な思想でも、それが客間の歓談の装飾に利用されるようになった時には、その命が死滅する。それはもう、思想でない。言葉の遊戯だ。西洋のそれと比較にならぬほど卓越していた筈の、東洋の精神界も、永年の怠惰な自讃に酔って、その本来の豊穣《ほうじょう》もほとんど枯渇《こかつ》しかかっている。このままでは、だめだ。自分は父に死なれて以来、いよいよ周囲の生活に懐疑と反感を抱き、懊悩《おうのう》焦慮の揚句《あげく》、ついに家郷を捨て、南京《ナンキン》に出た。何でもかまわぬ、新しい学問をしたかったフである。母は泣いて別れを惜しみ、八元の金を工面《くめん》して自分に手渡した。自分はその八元の金を持って異路に走り、異地に逃《のが》れ、別種の人生を探し、求めようとしたのである。南京に出て、どのような学校にはいるか。第一の条件は、学費の要らない学校でなければいけなかった。江南水師学堂は、その条件にだけは、かなっていた。自分はまずそこへ入学した。そこは海軍の学校で、自分はさっそく帆柱に登る練習などさせられたが、しかし新しい学問はあまり教えてくれなかった。わずかに It is a cat, Is it a rat ? など初歩の英語の手ほどきを受けただけであった。ちょうどその頃だ。かの康有為《こうゆうい》が、日本の維新に則《のっと》り、旧弊を打破し大いに世界の新知識を採り、以《もっ》て国力回復の策を立てよと叫び、所謂「変法自強の説」を帝にすすめ、いれられて国政の大改革に着手したが、アイテルカイトの Dame ならびにその周囲の旧勢力の権変に遭《あ》い、新政は百日にして破れ、帝は幽閉され、康有為は同志の梁啓超《りょうけいちょう》らと共に危く殺害からのがれて、日本に亡命した。この戊戌《ぼじゅつ》政変の悲劇をよそにして、It is a cat を大声で読み上げているのは、甚だ落ちつかない気持であった。自分も既に十八歳である。ぐずぐずしては居られぬ。早く新知識の中核に触れてみたい。自分は転校を決意した。つぎに選んだのは、南京の礦路学堂である。ここも学費は要らなかった。鉱山の学校であって、地学、金石学のほかに、物理、化学、博物学など、新鮮な洋学の課目があったので、どうやら少し落ちつく事が出来た。語学も、It is a cat, ではなくて、der Man, die Frau, das Kind, という事になった。自分には独逸《ドイツ》語のほうが、英語よりも洋学の中核に近いように漠然と感じられていたので、それもまたうれしい事の一つであった。校長も一個の新党で、梁啓超の主筆の雑誌「時務報」などの愛読者だったらしく、「変法自強の説」にもひそかに肯定を与えていたようで、漢文の試験にも他の儒者先生のように古聖賢の言を用いず、「華盛頓《ワシントン》論」というハイカラな問題を出したりして、儒者先生たちはその問題を見て、かえって自分たち生徒に、華盛頓って、どんな事だい、とこっそり尋ねる始末であった。生徒たちの間でも、新書を読む気風が流行して、中でも厳復の漢訳した「天演論」が圧倒的な人気を得ていた。博物学者 Thomas Huxley の Evolution and Ethics を漢文に訳したもので、自分も或る日曜日に城南へ買いに出かけた。厚い一冊の石印の白紙本で、値段はちょうど五百文だった。自分は之を一気に読了した。いまでも、その冒頭の数ペエジの文章をそっくりそのまま暗記している。いろいろの訳本が、続々と出版せられていた。自分たちの語学の力が、未だ原書を読みこなすまでに到ってはいな
前へ 次へ
全50ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング