るのにわかなるや、伊藤、山県《やまがた》、榎本《えのもと》、陸奥《むつ》の諸人は、みな二十年前、出洋の学生なり、その国、西洋のためにおびやかさるるを憤り、その徒百余人をひきい、わかれて独逸、仏蘭西、英吉利にいたり、あるいは政治工商を学び、あるいは水陸兵法を学び、学成りて帰り、もって将相となり、政事一変し、東方に雄視す、などという論調でもって日本を讃美し、そうして結論は、「遊学の国にいたりては、西洋は日本に如《し》かず」という事になっているが、しかし、その理由としては、
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一、路《みち》近くして費をはぶき、多くの学生を派遣し得べし。
一、日本文は漢文に近くして、通暁し易し。
一、西学は甚だ繁、およそ西学の切要ならざるものは、日本人すでに刪節《さんせつ》して之を酌改す。
一、日支の情勢、風俗相近く、順《したが》い易し。事なかばにして功倍する事、之にすぐるものなし。
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という工合のものであって、決して日本固有の国風を慕っているのでは無く、やはり学ぶべきは西洋の文明ではあるが、日本はすでに西洋の文明の粋を刪節して用いるのに成功しているのであるから、わざわざ遠い西洋まで行かずともすぐ近くの日本国で学んだほうが安直に西洋の文明を吸収できるという一時の便宜主義から日本留学を勧奨していた、といっても過言では無かろうと思う。当時、日本に留学する学生が年々増加していたが、ほとんどその全部が、この勧学篇に依ってあらわされている思想と大同小異の、へんに曲折された意図を以て、日本留学に出かけて行くような状態であって、自分もまた、その例にもれず、独逸行きを不可能と見て、その代りに日本留学を志望するに到ったという事実を告白しなければならぬ。自分は政府の留学生の試験に応じて、パスした。日本は、どんなところか。自分には、それに就《つ》いての予備知識は何も無かった。かつて日本を遊歴した事のある礦路学堂の先輩の許《もと》をおとずれて、日本遊学の心得を尋ねた。その先輩の言うには、日本へ行って最も困るのは足袋《たび》だ、日本の足袋は、てんで穿《は》けやしないから、支那《しな》の足袋を思い切ってたくさん持って行くがいい、それから紙幣は不自由な時があるから、全部、日本の現銀に換えて持って行った方がいい、まあ、そんなものだ、ということだったので、自分は早速《さっそく》、支那の足袋を十足買って、それから所持金を全部、日本の一円銀貨に換え、ひどく重くなった財布《さいふ》を気にしながら、上海《シャンハイ》で船に乗って横浜に向った。しかしその先輩の遊学心得は少し古すぎたようである。日本では、学生は制服を着て、靴と靴下を穿かなければいけなかった。足袋の必要は全然なかった。また、あの恥かしいくらい大きな一円銀貨は、日本でとうの昔に廃止されていて、それをまた日本の紙幣に換えてもらうのに、たいへんな苦労をした。それは後の話だが、自分がその明治三十五年、二十二歳の二月、無事横浜に上陸して、日本だ、これが日本だ、自分もいよいよこの先進国で、あたらしい学問に専念できるのだ、と思った時には、自分のそれまで一度も味《あじわ》った事の無かった言うに言われぬほのぼのした悦《よろこ》びが胸に込み上げて来て、独逸行きの志望も何も綺麗《きれい》に霧散してしまったほどで、本当に、あのような不思議な解放のよろこびは、これからの自分の生涯において、支那の再嘯ェ成就した日ならともかく、その他にはおそらく再び経験することが出来ないのではなかろうかと思われる。自分はそれから新橋行きの汽車に乗ったが、窓外の風景をひとめ見て、日本は世界のどこにも無い独自の清潔感を持っていることを直感した。田畑は、おそらく無意識にであろう、美しくきちんと整理されている。それに続く工場街は、黒煙|濛々《もうもう》と空を覆《おお》いながら、その一つ一つの工場の間を爽《さわや》かな風が吹き抜けている感じで、その新鮮な秩序と緊張の気配は、支那において全く見かけられなかったもので、自分はその後、東京の街《まち》を朝早く散歩する度毎に、どの家でも女の人が真新しい手拭《てぬぐい》を頭にかぶって、襷《たすき》をかけて、いそがしげに障子《しょうじ》にはたきをかける姿を見て、その朝日を浴びて可憐《かれん》に緊張している姿こそ、日本の象徴のように思われて神の国の本質をちらと理解できたような気さえしたものだが、それに似たけなげな清潔感を、自分の最初の横浜新橋間の瞥見《べっけん》に依っても容易に看取し得たのである。要するに、過剰が無いのである。倦怠《けんたい》の影が、どこにも澱《よど》んでいないのである。日本に来てよかった、と胸が高鳴り、興奮のため坐っていられず、充分に座席があったのに横浜から新橋まで
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