この景色には、少しも人間の匂いが無い。僕たちの国の者には、この淋《さび》しさはとても我慢できぬでしょう。」
「お国はどちらです。」私は余念なく尋ねた。
相手は奇妙な笑い方をして、私の顔を黙って見ている。私は幾分まごつきながら、重ねて尋ねた。
「東北じゃありませんか。そうでしょう?」
相手は急に不機嫌《ふきげん》な顔になって、
「僕は支那《しな》です。知らない筈《はず》はない。」
「ああ。」
とっさのうちに了解した。ことし仙台医専に清国《しんこく》留学生が一名、私たちと同時に入学したという話は聞いていたが、それでは、この人がそうなのだ。唱歌の下手くそなのも無理がない。言葉が妙に、苦しくて演説口調なのも無理がない。そうか。そうか。
「失礼しました。いや、本当に知らなかったのです。僕は東北の片田舎から出て来て、友達も無いし、どうも学校が面白くなくて、実は新学期の授業にもちょいちょい欠席している程で、学校の事に就いては、まだなんにも知らないのです。僕は、アインザームの烏なんです。」自分でも意外なほど、軽くすらすらと思っている事が言えた。
あとで考えた事だが、東京や大阪などからやって来た生徒たちを、あんなに恐れ、また下宿屋の家族たちにさえ打ち解けず、人間ぎらいという程ではなくても、人みしりをするという点では決して人後に落ちない私が、京、大阪どころか、海のかなたの遠い異国からやって来た留学生と、何のこだわりも無く親しく交際をはじめる事が出来たのは、それは勿論、あの周さんの大きい人格の然《しか》らしめたところであろうが、他にもう一つ、周さんと話をしている時だけは、私は自分の田舎者の憂鬱から完全に解放されるというまことに卑近な原因もあったようである。事実、私は周さんと話している時には、自分の言葉の田舎訛りが少しも苦にならず、自分でも不思議なくらい気軽に洒落《しゃれ》や冗談を飛ばす事が出来た。私がひそかに図に乗り、まわらぬ舌に鞭《むち》打って、江戸っ子のべらんめえ口調を使ってみても、その相手が日本人ならば、あいつ田舎者のくせに奇怪な巻舌を使っていやがるとかつは呆《あき》れ、かつは大笑いするところでもあったろうが、この異国の友は流石《さすが》にそこまでは気附かぬ様子で、かつて一度も私の言葉を嘲笑《ちょうしょう》した事が無かったばかりか、私のほうから周さんに、「僕の言葉、何だか、へんじゃないですか。」と尋ねてみた事さえあったが、その時、周さんは、きょとんとした顔をして、「いや、あなたの言葉の抑揚は、強くてたいへんわかり易《やす》い。」と答えたほどであった。之《これ》を要するに、何の事は無い、私より以上に東京言葉を使うのに苦労している人を見つけて私が大いに気をよくしたという事が、私と周さんとの親交の端緒になったと言ってよいかも知れないのである。可笑《おか》しな言い方であるが、私には、この清国留学生よりは、たしかに日本語がうまいという自信があったのである。それで私は、その松島の丘の上でも、相手が支那の人と知ってからは、大いに勇気を得て頗《すこぶ》る気楽に語り、かれが独逸語ならばこちらも、という意気込みで、アインザームの烏などという、ぞっとするほどキザな事まで口走ったのであるが、かの留学生には、その孤独《アインザーム》という言葉がかなり気に入った様子で、
「Einsam,」とゆっくり呟《つぶや》いて、遠くを見ながら何か考え、それから突然、「しかし僕は、Wandervogel でしょう。故郷が無いのです。」
渡り鳥。なるほど、うまい事を言う。どうも独逸語は、私よりもはるかに上手なようだ。もう独逸語を使う事はよそう、と私はとっさに戦法をかえて、
「でも、支那にお帰りになったら、立派なお家があるのでしょう。」とたいへん俗な質問を発した。
相手はそれに答えず、
「これから親しくしましょうね。支那人は、いやですか?」と少し顔を赤くして、笑いながら言った。
「けっこうですな。」ああ、なぜ私はあの時、あんな誠意のない、軽薄きわまる答え方をしたのであろう。あとで考え合わせると、あのとき周さんは、自分の身の上の孤独|寂寥《せきりょう》に堪えかねて、周さんの故郷の近くの西湖に似たと言われる松島の風景を慕って、ひとりでこっそりやって来て、それでもやっぱり憂愁をまぎらす事が出来ず、やけになって大声で下手な唱歌などを歌って、そうして、そこに不意にあらわれたヘマな日本の医学生に、真剣に友交を求めたのに違いないのだ。けれども私は、かねてから実は内心あこがれていないわけでもなかったところの江戸っ子弁という奴《やつ》をはばからず自由に試みられる恰好《かっこう》の相手が見つかって有頂天になっていたので、そんな相手の気持など何もわからず、ただもうのぼせて、「大いに、けっこうです。
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