」と上《うわ》の空で言い、「僕は支那の人は大好きなんです。」とふだん心に思ってもいない事まで口走る始末であった。
「ありがとう。あなたは、失礼ですが、僕の弟によく似ているのです。」
「光栄です。」と私は、ほとんど生粋《きっすい》の都会人の如き浅墓《あさはか》な社交振りを示して、「その弟さんは、しかし、あなたに似て頭がいいのでしょう? その点は僕と違うようですね。」
「どうですか。」とくったく無げに笑いながら、「あなたがお金持で、弟は貧乏だというところも違います。」
「まさか。」さすがの社交家も、之には応対の仕様が無かった。
「本当です。父が死んでから、一家はバラバラに離散しました。故郷があって、無いようなものです。相当な暮しの家に育った子供が、急にその家を失った場合、世間というものの本当の姿を見せつけられます。僕は親戚《しんせき》の家に寄寓《きぐう》して、乞食《こじき》、と言われた事があります。しかし、僕は、負けませんでした。いや、負けたのかも知れない。der Bettler,」と小声で言って煙草を捨て、靴の先で踏みにじりながら、「支那ではね、乞食の事をホワツと言うのです。花子《はなこ》と書きます。乞食でいながら、Blume を anmassen しようとするのは、Humor にもなりません。それは、愚かな Eitelkeit です。そうです。僕のからだにも、その虚栄《アイテルカイト》の Blut が流れているのかも知れない。いや、現在の清国の姿が、ganz それです。いま世界中で、あわれなアイテルカイトで生きているのは、あの Dame だけです。あの Gans だけです。」
熱して来るとひとしお独逸語が連発するので、にわか仕立ての社交家もこれには少なからず閉口した。私には江戸っ子弁よりも、さらにさらに独逸語が苦手なのである。窮した揚句《あげく》、
「あなたは、お国の言葉よりも、独逸語のほうがお得意のようですね。」と一矢を報いてやった。何とかして、あの独逸語を封じなければならぬ。
「そうではありません。」と相手は、私の皮肉がわからなかったらしく、まじめに首を振って、「僕の日本語が、おわかりにならぬかと思って。」
「いや、いや。」私はここぞと乗り出し、「あなたの日本語は、たいへん上手です。どうか、日本語だけで話して下さい。僕は、まだ独逸語は、どうも。」
「やめましょう。」と向うも、急にはにかんで、おだやかな口調にかえり、「僕は、馬鹿な事ばかり言いました。しかし、独逸語は、これからも、うんと勉強しようと思っています。日本の医学の先駆者、杉田|玄白《げんぱく》も、まず語学の勉強からはじめたようです。藤野先生も最初の授業の時に、杉田玄白の蘭学《らんがく》の苦心を教えてくれましたが、あなたは、あの時、――」と言いかけて、私の顔をのぞいてへんに笑った。
「欠席しました。」
「そうでしょう。どうもあの時、あなたの顔は見かけなかった。僕は、本当は、あなたを入学式の日から知っているのです。あなたは、入学式の時、制帽をかぶって来ませんでしたね。」
「ええ、何だかどうも、角帽が恥かしくて。」
「きっと、そうだろうと思っていました。あの日、制帽をかぶって来ない新入生が二人いました。ひとりは、あなたで、もうひとりは、僕でした。」と言って、にやりと笑った。
「そうでしたか。」と私も笑った。「それでは、あなたも、やはり、――」
「そうです。恥かしかったのです。この帽子は、音楽隊の帽子に似ていますからね。それから、僕は、学校へ出るたびに、あなたの姿を捜していました。けさ、船で一緒になって、うれしかったのです。しかし、あなたは僕を避けていました。船から降りたら、もういなくなっていました。でも、やっぱり、ここで逢いました。」
「風が、寒くなりましたね。下へ降りましょうか。」妙に、てれくさくなって来たので、私は話頭を転じた。
「そうね。」と彼は、やさしく首肯《うなず》いた。
私は、しんみりした気持で周さんの後について山を降りた。何か、このひとが、自分の肉親のような気がして来た。うしろの松林から松籟《しょうらい》が起った。
「ああ。」と周さんは振りかえって、「これで完成しました。何か、もう一つ欲しいと思っていたら、この松の枝を吹く風の音で、松島も完成されました。やっぱり、松島は、日本一ですね。」
「そう言われると、そんな気もしますが、しかし僕には、まだ何だか物足りない。西行《さいぎょう》の戻り松というのが、このへんの山にあると聞いていますが、西行はその山の中の一本松の姿が気に入って立ち戻って枝ぶりを眺めたというのではなく、西行も松島へ来て、何か物足りなく、浮かぬ気持で帰る途々《みちみち》、何か大事なものを見落したような不安を感じ、その松のところからまた松島に引返
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