くらいの景色を、あの橘氏が「八百八島つらなれる風景画にかける西湖の図に甚だ似たり遥かに眼をめぐらせば東洋限りもなく誠に天下第一の絶景」などと褒《ほ》めるわけはない、橘氏はもっと高いところから眺め渡したのに違いない、登ろう、とまた気を取りなおして、山の奥深くわけいるのであるが、そのうちに、どうやら道を踏み違えたらしく、鬱蒼《うっそう》たる木立の中に迷い込み、眺望どころでなくなって、あわてて遮二無二《しゃにむに》木立を通り抜け、見ると、私は山の裏側に出てしまったらしく、眼下の風景は、へんてつも無い田畑である。東北線を汽車が走って行くのが見える。私は、山を登りすぎたのである。まことにつまらない思いで、芝生の上に腰をおろし、空腹を感じて来たので、宿で作ってもらったおにぎりを食べ、ぐったりとなって、そのまま寝ころび、うとうと眠った。
幽《かす》かに歌声が聞えて来る。耳をすますと、その頃の小学唱歌、雲の歌だ。
瞬《またた》く間《ひま》には、山をおおい、
うち見るひまにも、海を渡る、
雲ちょうものこそ、奇《く》すしくありけれ、
雲よ、雲よ、
雨とも霧とも、見るまに変りて、
あやしく奇しきは、
雲よ、雲よ、
私は、ひとりで、噴き出した。調子はずれと言おうか、何と言おうか、実に何とも下手《へた》くそなのである。歌っているのは、子供でない。たしかに大人の、異様な胴間声《どうまごえ》である。まことに驚くべき歌声であった。私も小学校の頃から唱歌は、どうも苦手で、どうやら満足に歌えるのは「君が代」一つくらいのものであったが、それでも、その驚くべき歌の主よりは、少し上手《じょうず》に歌えるのでなかろうかと思った。黙って聞いていると、その歌の主は、はばかるところ無くその雲の歌を何遍も何遍も繰りかえして歌うのである。或《ある》いはあの歌の主は、かねがねあまりに自分が歌が下手なので、思いあまって、こんな人里はなれた山奥でひそかに歌の修行をしているのかも知れない、と思ったら、同様に歌の下手な私には、そぞろその歌の主がなつかしくなって来て、ひとめそのお姿を拝見したいという慾望が涌然《ようぜん》と起って来た。私は立ち上って、そのひどい歌声をたよりに山をめぐった。或いはすぐ近くに聞え、或いは急に遠くなり、けれども絶えずその唱歌の練習は続いて、ふいに、私は鉢合《はちあわ》せするほど近く、その歌の主の面前に出てしまった。私もまごついたが、相手は、もっと狼狽《ろうばい》したようであった。れいの秀才らしい生徒である。白皙《はくせき》の顔を真赤にして、あははと笑い、
「さきほどは、しつれい。」とてれかくしの挨拶《あいさつ》を述べた。
言葉に訛りがある。東京者ではない、と私はとっさのうちに断定した。たえず自分の田舎訛りに悩んでいる私はそれだけ他人の言葉の訛りにも敏感だった。ひょっとしたら、私の郷里の近くから来た生徒かも知れぬ、と私はいよいよこの歌の大天才に対して親狎《しんこう》の情を抱《いだ》き、
「いや、僕こそ、しつれいしました。」とわざと田舎訛りを強くして言った。
そこはうしろに松林のある小高い丘で、松島湾の見晴しも、悪くなかった。
「まあ、こんなところかな?」と私はその生徒と並んで立ったまま眼下の日本一の風景を眺め、「僕はどうも、景色にイムポテンツなのか、この松島のどこがいいのか、さっぱり見当がつかなくて、さっきからこの山をうろうろしていたのです。」
「僕にも、わかりません。」とその生徒は、いかにもたどたどしい東京言葉で、「しかし、だいたいわかるような気がします。この、しずかさ、いや、しずけさ、」と言い澱《よど》んで苦笑して、「Silentium,」と独逸《ドイツ》語で言い、「あまりに静かで、不安なので、唱歌を声高く歌ってみましたが、だめでした。」
いや、あの歌だったら松島も動揺したでしょう、と言ってやろうと思ったが、それは遠慮した。
「静かすぎます。何か、もう一つ、ほしい。」とその生徒は、まじめに言い、「春は、どうでしょうか。海岸の、あのあたりに桜の木でもあって、花びらが波の上に散っているとか、または、雨。」
「なるほど、それだったらわかります。」なかなか面白い事を言うひとだ、と私はひそかに感心し、「どうも、この景色は老人むきですな。あんまり色気が無さすぎる。」調子に乗ってつまらぬ事を言った。
その生徒は、あいまいな微笑を頬に浮かべて煙草に火をつけ、
「いや、これが日本の色気でしょう。何か、もう一つ欲しいと思わせて、沈黙。Sittsamkeit, 本当にいい芸術というのも、こんな感じのものかも知れませんね。しかし、僕には、まだよくわかりません。僕はただ、こんな静かな景色を日本三景の一つとして選んだ昔の日本の人に、驚歎しているのです。
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