将来、撮って送ってくれるように、そして折々たよりをしてその後の様子を知らせるようにとお頼みになった。
 僕は仙台を去った後、多年写真を撮ったことがなかった。それに、その後の僕の様子も面白くなく、お知らせすれば先生を失望させるばかりであると思うと、手紙さえ書けなかったのである。年月が余計に経過するにしたがい、いよいよ何からお話してよいやら惑《まど》うばかりで、たまにお便りを差上げようと思って、筆を執《と》っても、一字もしたためる事が出来なかった。かくてそれっきり今日まで、ついに一本の手紙も一枚の写真も送らずに過して来てしまったのである。先生の側からいえば、僕は去ったが最後、杳《よう》として音沙汰《おとさた》なしというところであろう。
 だが、何故《なぜ》だか知らぬが、僕は二十年後の今でも、折にふれて先生を思い出す。僕がわが師と仰いでいる人の中で、先生こそは最も僕を感激せしめ、僕を鼓舞激励して下さった一人であった。時々、僕はこう考える。先生の僕に対する熱心なる希望と、倦《う》まざる教晦《きょうかい》とは、小にして之《これ》を言えば、これ中国のためであり、即ち中国に新しい医学の起らん事を希望せられたのであり、大にして之を言えば、これ学術のためであり、即ち新しき医学を中国に伝えようと希望されたのである。先生の人格は、僕の眼中に於いて、また心裡《しんり》に於いて、偉大である。先生の姓名を知る人は極めて少いであろうが。
 先生が訂正して下さったノオトを、僕は三冊の厚い本に装幀《そうてい》して、永久の記念にするつもりで、大事にしまって置いた。不幸にして七年前、遷居《せんきょ》の際に、途中で一つの本箱を壊《こ》わし、その半数の書籍を紛失したが、ちょうどこのノオトも、その時に共に紛失してしまったのである。運送店に捜すよう詰責《きっせき》したが、絶えて返事が無かった。ただ、先生のお写真のみは今なお僕の北京《ペキン》の寓居《ぐうきょ》の東側の壁に、書卓のほうに向けて掛けてある。夜間、倦《う》んじ疲れて、懈怠《けだい》の心が起ろうとする時、頭をもたげて燈光の中に先生の黒い痩《や》せたお顔を瞥見《べっけん》すると、いまにも、あの抑揚|頓挫《とんざ》のある言葉で話しかけようとしていらっしゃるかの如くに思われる。と忽《たちま》ち、それが、僕の良心を振いおこさせ、そして勇気を倍加させてくれる。そこで僕は一本の煙草に火を点じて、再び、所謂『正人君子』の輩に、深く憎悪されるところの文章を書きつづけるのである。」


 後に日本に於いて、魯迅先生の選集の出版せられるに当り、日本の選者は先生に向って、どの作品を選んだらよいかと問い合せたところが、先生は、それは君たちの一存で自由に選んでよろしい、しかし「藤野先生」だけは必ずその選集にいれてもらいたい、と言われたという。
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     あとがき


 この「惜別」は、内閣情報局と文学報国会との依嘱《いしょく》で書きすすめた小説には違いないけれども、しかし、両者からの話が無くても、私は、いつかは書いてみたいと思って、その材料を集め、その構想を久しく案じていた小説である。材料を集めるに当って、何かと親しく相談に乗って下さった方は、私の先輩に当る小説家、小田|嶽夫《たけお》氏である。小田氏と支那《しな》文学の関係に就《つ》いては、知らぬ人もあるまい。この小田氏の賛成と援助が無かったら、不精《ぶしょう》の私には、とてもこのような骨の折れる小説に取りかかる決意がつかなかったのではあるまいかとさえ思われるほどである。小田氏にも、「魯迅伝」という春の花のように甘美な名著があるけれども、いよいよ私がこの小説を書きはじめた、その直前に、竹内好氏から同氏の最近出版されたばかりの、これはまた秋の霜《しも》の如くきびしい名著「魯迅」が、全く思いがけなく私に恵送《けいそう》せられて来たのである。私は竹内氏とは、未だ一度も逢《あ》った事が無い。しかし、竹内氏が時たま雑誌に発表せられる支那文学に就いての論文を拝読し、これはよい、などと生意気にも同氏にひそかに見込を附けていたのである。いつか小田氏にお願いして、竹内氏に紹介してもらおうかとさえ思っていたのであるが、そのうちに竹内氏は出征なされたとか。それで、この竹内氏のご苦心の名著も、竹内氏のお留守の間に出版せられ、そうして、竹内氏が出征の際に、あの本が出来たら、太宰にも一部送ってやれ、とでも言い残して行かれたのであろうか、出版元から「著者の言いつけに依《よ》り貴下に一部贈呈する」という意味の送状が附け加えられていた。これだけでも既に不思議な恩寵《おんちょう》なのに、さらにまた、その本の跋《ばつ》に、この支那文学の俊才が、かねてから私の下手《へた》な小説を好んで読まれていたらしい意外の事実
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