んだ。私には何か、周さんの気持が、わかるように思われた。ほって置かれないような気がして、私もつづいてそっと教室から出た。周さんの姿は、既に廊下には見当らなかった。授業中の校舎全体、しんとしている。私は廊下の窓から、校庭のほうを眺《なが》め、周さんの姿を見つけた。周さんは、校庭の山桜の樹の下に、仰向《あおむけ》に寝そべっている。私も校庭に出て、周さんの傍へ近寄っト行って見ると、周さんは眼をつぶって、意外にも幽《かす》かに笑っている。
「周さん。」と小声で呼んだら、周さんはむっくり上半身を起して、
「きっと、あなたが、ついて来ると思っていました。心配する事は無いんです。あの幻燈のおかげで、やっと僕にも決心がつきました。僕は久し振りで、わが同胞におめにかかって、思いをあらたにしました。僕は、すぐ帰国します。あれを見たら、じっとして居られなくなりました。僕の国の民衆は、相変らず、あんなだらしない有様でいるんですねえ。友邦の日本が国を挙げて勇敢《ゆうかん》に闘っているのに、その敵国の軍事探偵になる奴の気も知れないが、まあ、大方お金で買収されたんでしょうけれど、僕には、あの裏切者よりも、あのまわりに集ってぼんやりそれを見物している民衆の愚かしい顔が、さらに、たまらなかったのです。あれが現在の支那の民衆の表情です。やっぱり精神の問題だ。いまの支那にとって大事なのは、身体の強健なんかじゃない。あの見物人たちは、みんないいからだをしていたじゃありませんか。医学は、いま彼等に決して緊要《きんよう》な事ではないという確信を深めましたよ。精神の革新です。国民性の改善です。いまのままでは、支那は永遠に真の独立国家としての栄誉を、確立する事が出来ない。打清興漢であろうと、立憲であろうとも、ただ政治の看板を換えただけで、品物の生地が元のままでは、仕方がないじゃありませんか。僕は、しばらくあの茫然《ぼうぜん》たる表情の民衆から離れて暮していたので、自分の心の焦点がきまらないで、それであれこれ迷っていたのですね、おかげで、きょうは焦点がきまった。あれを見て、いい事をしました。僕はすぐ医学をやめて帰国します。」
私も、もはやそれを制止すべきではないと思った。しかし、
「藤野先生が。」とつい一言、口からすべり出た。
「ああ、」と周さんは、うつむいて、「それですよ。あの先生の親切を裏切るのが、せつなくて、それできょうまで僕はこの学校に愚図愚図していたと言ってもよいのです。しかし、」と顔を上げて、「もう、しかし、やむにやまれないのです。あの同胞の表情を見た以上は、もう左顧《さこ》も右眄《うべん》もして居られません。日本の忠義の一元論も、こんなものではないかしら。そうだ。僕は、やっとあの哲学が体得できました。帰国して、僕はまずあの民衆の精神の改革のため、文芸運動を起します。僕の生涯は、そのために捧《ささ》げてしまうのです。とにかく一旦《いったん》、帰国し、故郷の弟とも相談して一緒に文芸雑誌を出して、そう、その雑誌の名前も、きょう、いま、はっきりきまりました。」
「どんな名前ですか?」
「新生。」
と一言、答えて微笑した。その笑いには、周さん自ら称していたあの「奴隷の微笑」の如き卑屈の影は、みじんも見受けられなかった。
老医師の手記は、以上で終っているが、自分(太宰)は、さらに次の数行を附加して、この手記の読者の参考に供したい。
全世界に誇るべき東洋の文豪、魯迅先生の逝去《せいきょ》せられたのは、昭和十一年の秋であるが、それに先立つこと約十年、先生四十六歳の昭和元年に、「藤野先生」という小品文を発表せられた。その一部を抜萃《ばっすい》すれば、
[#地から2字上げ](松枝茂夫氏の訳に拠る)
「(前略)第二学年の終りになって、僕は藤野先生を訪ねて、もう医学の勉強はやめようと思うこと、そしてこの仙台を去るつもりでいることを、先生に告げた。先生の顔には深い悲哀の色が浮び、何か言いたげな御様子であったが、とうとう言い出されなかった。
『僕は生物学を学ぼうと思います。先生が僕に教えて下さった学問は、やはりそれにも役立つかと思います。』だが実は、僕は生物学を学ぼうと決心していたわけではなかった。先生がひどく悽然《せいぜん》とした様子をしていらっしゃるのを見たため、先生を慰めるつもりで心にもない嘘《うそ》をついたのである。
『医学のために教えた解剖学の類は、怕《おそ》らく生物学には大して役にも立つまい。』と先生は、歎息しておっしゃった。
立つ四五日前に、先生は僕をご自分のお宅に呼んで、そうして僕に先生のお写真を一枚下さった。その写真の裏には『惜別』と二字書かれてあった。そして僕の写真も呉《く》れるようにと希望された。だが僕はその時あいにく写真を撮《と》っていなかった。先生は
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