別会を私の下宿でひらいて、出席者の酒飲み大工とその十歳の娘、津田、矢島の両幹事、私、それから主賓の周さん、みんな立って、今思えば噴き出したくなるくらいの、声楽の大天才揃いの珍妙きわまる合唱を行い、
仰げば尊し わが師の恩
教えの庭にも はやいくとせ
思えば いととし この年月
今こそわかれめ いざさらば
互いにむつみし 日頃の恩
わかるるのちにも やよ忘るな
など歌っているうちに、まっさきにくるりとうしろを向いて泣いてしまったのは、この津田氏であった。口では何のかのと威勢のいい事を言っていながら、やっぱり、周さんと別れるのが、誰よりも淋《さび》しかったのだろう。私は津田氏と附合って、こんな佳《い》い半面を見るにつれて、以前ほど都会人というものを、おそろしくも、また、いやでもなくなった。また、あの田舎《いなか》ダンディと誤解せられていた矢島君も、その後、附合ってみると、ただ、ひどくまじめな人で、いつか周さんが仙台の人に就いて批評していたように、「東北の雄藩の責任を感じて、かたくなっている」だけなのである。「仙台の面目」とでもいうようなものに、こだわりすぎて、それで初対面の挨拶が固苦しく、尊大にさえ見えるのであるが、こっちのほうから遠慮なく突込んで行くと、急にはにかんで、なかなか親切な、気前のいいとこを見せてくれる。心の弱いのをかくそうとして、あんな尊大の挨拶をするのではなかろうか、と思われる。周さんに対して、あんなまずい手紙を突きつけたのも、決して支那のひとが劣等だからという侮辱の意味ではなくて、かえって、支那の秀才に対する畏敬《いけい》の気持も含まれていたのではなかろうかとさえ思われる。敬愛の念が、ぎくしゃくと奇妙に倒錯《とうさく》して、ついに、仙台あなどるべからず、とでもいうような「張り合う」気持などが出て来て、あんなまずい手紙を書いてしまったのではあるまいか。真面目な人が、へんに思いつめた揚句《あげく》で書くと、あんな工合に書体も奇怪な金釘流《かなくぎりゅう》になり易いものだし、また文章も、下手くそを極めるもののようである。要するに、まじめな人なのである。その頃、周さんが次第に学校の勉強に熱意を失いかけているのを見てとり、或いは自分があんな馬鹿な手紙を差し上げた事も、その周さんの不勉強の原因の一つになっているのではあるまいか、と非常に気にしているらしく、周さんに独逸《ドイツ》語の大辞典を贈呈したり、宿題をひき受けてやったり、また、学校で講義を聴く時には、いつも周さんの隣りに座席をとって、何かと世話を焼いている様子であったが、しかし、周さんは、藤野先生をはじめ、そのような皆の懸命の努力にも拘《かかわ》らず、やはり、まもなく私たちから去って行った。
あれは、たしか二学年の終りの頃の事であったと思う。雪も消えて、榴《つつじ》ヶ岡《おか》の枝垂桜《しだれざくら》も咲きはじめ、また校庭の山桜も、ねばっこい褐色《かっしょく》の稚葉《わかば》と共に重厚な花をひらいて、私たちはそろそろ学年末の試験準備に着手していた頃であった。あの、所謂「幻燈事件」が起り、周さんのなつかしい姿が、忽然《こつぜん》と、私たちの周囲から消えた。前にも言ったように、周さんは、あの幻燈の画面を見て、にわかに医学から文芸へ転換したのではなく、その方針の変化は、ずいぶん前から徐々に行われていたのは事実であるが、しかし、あの「幻燈事件」は、少くともその総決算の口実の役目を勤めたという事は認めざるを得ないのである。謂わば、周さんの仙台引上げの踏切台にはなったのである。二学年になったら、黴菌《ばいきん》学という学課も加わって、細菌の形状を教えるのに、教室で講師が幻燈を映し、いろいろその形状の特徴など説明して下さったものだが、課業が一段落ついても、なお時間が余っている際には、風景や時事の画片を映して私たちを楽しませてくれた。華厳《けごん》の滝《たき》や、吉野山など、殊《こと》にも色彩が見事で、いまでもあざやかに記憶に残っているが、時事の画片としては、やはり、旅順港封鎖、水師営《すいしえい》会見、奉天《ほうてん》入城など、日露戦争の画面が圧倒的に多かった。そうして、私たち学生は、そのような勇ましい画面が出ると、皆大よろこびで拍手|喝采《かっさい》したものだ。その学年末の或る日の、黴菌学の時間にも、れいに依って、二〇三高地の激戦とか、三笠艦とかの画面が出て、私たちは大騒ぎで拍手し、そのうちにかたりと画面が変って、ひとりの支那人が、露西亜《ロシア》の軍事探偵を働いた罪に依って処刑せられる景があらわれた。講師の説明を聞いて、私たちは、またもさかんな拍手を送った。その時、暗い教室の、横のドアをそっとあけて廊下に忍び出た学生の姿を私は認めた。はっと思った。周さ
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