ようですが、誰も知らない事実だって、この世の中にあるのです。しかも、そのような、誰にも目撃せられていない人生の片隅に於いて行われている事実にこそ、高貴な宝玉が光っている場合が多いのです。それを天賦《てんぷ》の不思議な触角で捜し出すのが文芸です。文芸の創造は、だから、世の中に表彰せられている事実よりも、さらに真実に近いのです。文芸が無ければ、この世の中は、すきまだらけです。文芸は、その不公平な空洞を、水が低きに流れるように自然に充溢《じゅういつ》させて行くのです。」
そんな話を聞かせてもらうと、私のような野暮《やぼ》な山猿にも、なるほど、そんなものか、やはりこの世の中には、文芸というものが無ければ、油の注入の少い車輪のように、どんなに始めは勢いよく廻転しても、すぐに軋《きし》って破滅してしまうものかも知れない、と合点が行くものの、しかし、また一方、あんなに熱心に周さんの医学の勉強を指導して下さっている藤野先生の事を思うと、悲しくなって、深い溜息《ためいき》の出る事もあるのである。その頃も、藤野先生は何もご存じ無く、相変らず周さんのノオトに、一週間に一度ずつ、たんねんに朱筆を入れて下さっていたのだ。それでも、さすがに、教えるひとは弟子《でし》に敏感なところもあって、周さんがこのごろ医学の研究に対して次第に無気力になって来たのを、何かの勘《かん》で察知なさるらしく、周さんをしばしば研究室に呼んで、何やらおこごとをおっしゃっている様子で、また、私も、その後二、三度、研究室出頭を命ぜられ、
「周君は、このごろ元気が無いようだが、何か思い当る事は無いか。」
「クラスの中で、周君に意地悪をする者はいないか。」
「研究の Thema に就《つ》いて、周君と相談したか。」
「解剖実習を、未だ内心いやがっているのではないか。日本の病人たちは、それが医学に役立つならば、死後の Leichnam の解剖など、かえって自分から希望しているくらいのものだ、という事をよく言い聞かせてやったか。」
など、うるさいくらいに質問の矢を浴びなければならなかったのである。そうして私は、それに対して、いつもいい加減な受け応《こた》えばかりしていた。周さんの医学救国の信念がぐらついて、そうして、日本の維新も、さらによく調べてみたら、それは一群の思想家の著述によって口火を切られたものだという事がわかって、しかし、周さんにはいまのところ、むつかしい思想の著述はおぼつかないので、まず民衆に対する初歩教育のつもりで文芸に着目し、ただいま世界各国の文芸を研究しています、なんて、そんな、先生にとっては全く寝耳に水のような実状を打明けたら、先生は、どんなに驚愕《きょうがく》し、また淋《さび》しいお気持になられるかと思えば、愚直の私も、さすがに言葉を濁《にご》さざるを得なかったのである。それでも私は、いちどだけ、周さんに先生の御心配をそれとなく伝言してみた事がある。
「こんど藤野先生から、研究のテエマをもらって、一緒にやってみませんか。纏足《てんそく》の骨形状など、面白いんじゃないでしょうか。」
周さんは、幽《かす》かに笑って、首を振った。すでに、一さいを察しているようであった。その頃の周さんは、あの夏休み直後の、ひやりとするくらいの、へんに底意地の悪いような表情はしなくなっていたが、それでも、何か私たちと隔絶された世界に住んでいる人みたいに、たいていはただあいまいに微笑して、それに就いてまた、あの苦労性の津田氏など気をもんで、
「あいつ、どうかしているんじゃないか。下宿でも、つまらない小説本ばかり読んで、学校の勉強は、ちっともしていないんだぜ。あいつも、いよいよ革命の党員になったか、いや、それとも、失恋かな? とにかく、あんな工合じゃ、いけない。こんどは、落第するかも知れない。あいつは清国《しんこく》政府から選ばれて、日本に派遣《はけん》されて来た秀才だ。日本は、あいつに立派な学問を教え込んでやって帰国させなければ、清国政府に対して面目が無い。僕たち友人の責任も、だから、重大なんだよ。あいつは、どうもこのごろ僕を馬鹿にしているらしくて、僕がさまざまの忠告を試みても、ただ黙ってにやにや笑っている。薄気味が悪くなった。お前の言う事なら、きくかも知れない。いつか、思い切ってこっぴどくやっつけてやったら、どうだい。眼を覚ませ! と言って鉄拳《てっけん》でも加えてやると、心を改めて勉強するようになるかも知れない。」
私は、この手記の二、三箇所において、津田氏を嘲笑するような筆致を弄《ろう》した事を、いまは後悔している。よく考えてみると、周さんを最も愛していたのは、この津田氏ではなかったかしら、というような気さえして来る。いよいよ周さんと別れなければならなくなって、そのささやかな内輪の送
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