抗した文芸を試みていそうな気もするのですがね。僕はどうも、ただ理窟っぽいばかりで、詩や小説の才能が貧しいように思われますから、まあ、そんな圧迫されている民族の反抗の作品などを捜し出して支那語に訳し、僕の同胞に読ませてやりたいと思っているのです。しかし、飜訳《ほんやく》だって文章が下手《へた》では、仕様がありませんからね。国にいる僕の弟の作人は、失礼ながら、笑い顔など、あなたにちょっと似ているのですが、あれは、小さい時から僕なんかよりずっと文章が上手《じょうず》でした。まあ、これから弟に教えられて、兄弟合作という事にでもして、少しずつ文芸の飜訳をしてみたいと思っているのです。それでこのごろ、筆ならしに、いろんな文章を書いてみているのですが、」と言って机の引出しから一冊のノオトを取出しぱらぱらめくって、「こんなのは、どうでしょうか。いや、御覧になっても、支那の文章では、おわかりにならないでしょう? 一箇所だけ、日本文に直してみましょうか。」
 彼は便箋に何の苦もなくすらすら数行書き流し、それから急に顔を赤くしてためらいながら私にそれを手渡した。私は一読して、名文だと思った。私はその日、無理にその紙をもらって帰った。なぜかしら、記念、という気がしたのである。周さんとまもなく別れてしまわなければならぬのだということを、その時、はっきり予感していたわけではなかったが、虫の知らせというものであろうか、なぜかその一枚の紙片に奇妙な執着を感じたのである。私はその後永く、その紙片を私のノオトにはさんで、教室で講義に退屈した時など、こっそり取り出してその名文を愛誦《あいしょう》し、遠く離れた周さんをなつかしんだものだが、卒業|真際《まぎわ》に、ある学友から取り上げられてしまって、いま思うと実に惜しいのである。それは、まあ、後の話であるが、その時の文章は、当時、私の反復愛誦したものであるから、今でもだいたいを記憶している。何でも、文章の本質、とかいう題で、
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 文章の本質は、個人および邦国の存立とは係属するところなく、実利はあらず、究理《きゅうり》また存せず。故《ゆえ》にその効たるや、智を増すことは史乗《しじょう》に如《し》かず、人を誡《いまし》むるは格言に如かず、富を致すは工商に如かず、功名を得るは卒業の券に如かざるなり。ただ世に文章ありて人すなわち以《もっ》て具足するに幾《ちか》し。厳冬永く留《とどま》り、春気至らず、躯殻《くかく》生くるも精魂は死するが如きは、生くると雖《いえど》も人の生くべき道は失われたるなり。文章無用の用は其《そ》れ斯《ここ》に在らん乎《か》。
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 記憶力の悪い私の事であるから、或《ある》いは二、三覚え違いがあるかも知れないが、語調の弱いような箇所をそれだと思い、実物はこの十倍も見事な名文だったのだろうという工合に御想像願うことにしよう。
 この短文の論旨は、あの人がかねて言っているような「同胞の政治運動にお手伝いするため」の文芸、とは多少ちがった方向を指差しているようにも思われるが、しかし、「無用の用」という言葉になかなかの含蓄《がんちく》が感ぜられる。結局は、用なのである。ただ、実際の政治運動の如く民衆に対して強力な指導性を持たず、徐々に人の心に浸潤し、之を充足せしむる用を為《な》すものだ、というような意味ではなかろうかと思われる。文芸に対するこのような解釈は、私には少しも退嬰《たいえい》的なものとは考えられない。かえって非常に、健全なもののように思われる。このような行き方ならば、私たち文芸の門外漢にも、その大きい実力が、ぼんやり感ぜられて来るのである。その日であったか、また、別な日であったか、周さんは更にこんな即興の譬話《たとえばなし》でもって私を啓発してくれた事があった。
「難破して、自分の身が怒濤《どとう》に巻き込まれ、海岸にたたきつけられ、必死にしがみついた所は、燈台の窓縁。やれ、嬉《うれ》しや、と助けを求めて叫ぼうとして、窓の内を見ると、今しも燈台守の夫婦とその幼い女児とが、つつましくも仕合せな夕食の最中だったのですね。ああ、いけない、と男は一瞬戸惑った。遠慮しちゃったのですね。たちまち、どぶんと大波が押し寄せ、その内気な遭難者のからだを一|呑《の》みにして、沖遠く拉《らっ》し去った、とまあ、こんな話があるとしますね。遭難者は、もはや助かる筈はない。怒濤にもまれて、ひょっとしたら吹雪《ふぶき》の夜だったかもしれないし、ひとりで、誰にも知られず死んだのです。もちろん、燈台守は何も知らずに、一家|団欒《だんらん》の食事を続けていたに違いないし、もし吹雪の夜だとしたら、月も星も、それを見ていなかったわけです。結局、誰も知らない。事実は小説よりも奇なり、なんて言う人もある
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