いうのであろう、たいてい眼鏡をかけて、いかにも神経質らしく眉をひそめて野暮《やぼ》ったい風俗の私たちを睨《にら》み、文士劇などもしばしば仙台の劇場で開演せられ、俗物の私も、ついにその激流に抗しかねて、藤村の新体詩などをこっそり覗《のぞ》いてみるというような有様で、東北の仙台でさえそのような盛観であったのだから、花の都の東京に於いてはどのようであったか。私どもの想像を絶するほどのものがあったのではなかろうか。周さんが、夏休みに東京へ行き、まず感じたものは、その澎湃《ほうはい》たる文芸の津波ではなかったろうか。書店の文芸書の洪水ではなかったろうか。そうしてその洪水の中を異常に真剣な顔つきで、泳ぎまわっている青年男女の大群ではなかったろうか。この人たちは、いったい何を求めているのかしら、と彼も一緒になってその書店をうろうろして見たに違いないのである。そうして、事実、彼はいろんな文芸書を買い込んで仙台へ持って来た。あの人たちが競争相手だ、と言っていた。彼の文芸熱が、こうして徐々に燃え上って来ると同時に、また常に彼の胸中に去来して寸時も離れないものは、自国の青年たちの革命の絶叫である。医学と文芸と革命と、言いかえれば、科学と芸術と政治と、彼はこの三者の混沌《こんとん》の渦《うず》に巻き込まれたのではあるまいか。私は彼の後年の尨大《ぼうだい》な著作物に就いては、ほとんど知るところが無い。それゆえ、所謂大魯迅の文芸の功績は、どんなものであったか何も知らない。しかし、ただ一つ確実に知っているのは、彼が、支那に於ける最初の文明の患者《クランケ》だったという事である。私の知っている仙台時代の周さんは、近代文明を病んで苦しみ、その病床《クランケンベット》を求めて、教会の扉さえ叩《たた》いたのだ。しかし、そこにも救済は無かった。れいの身振りに辟易《へきえき》したのだ。懊悩《おうのう》の果には、あの気品の高い正直な青年が、奴隷の微笑をさえ頬に浮べるようになったのだ。混沌の特産物である自己嫌悪。彼はこの文明的感情に於いて、たしかに支那のいたましい先駆者のひとりであったと言えるのではあるまいか。そうしてこの苦しい内省の地獄が、いよいよ、人の百感の絵図ともいうべき文芸に接近させたのではあるまいか。もとより「好きな道」である。困憊《こんぱい》の彼はこの病床に這《は》い上り、少しく安堵《あんど》を覚えたのではあるまいか。もとより之《これ》は、私の俗な独断である。ひとの心裡の説明は、その御当人にさえうまく出来ないものらしいし、まして私のような鈍才無学の者には、他人の気持など、わかりっこないのであるが、しかし、巷説《こうせつ》の魯迅の転機は、私にはどうしても少し腑《ふ》に落ちないところがあるので、敢《あ》えて苦手の理窟を大骨折りで述べて見た次第である。

 その大雪の夜から、ひとつきほど経って、たしかあれは明治三十九年のお正月頃の事だったように思う。そのころ、周さんが一週間ばかり教室に顔を見せなかった事があったので、津田氏に聞くと、おなかをこわして寝ているという。それで私は、学校からの帰り、周さんの下宿にお見舞いに立寄ってみた。周さんは、いくらか病人らしい青い顔をしていたが、私が行くとすぐ起きて、私の制止も聞かずにさっさと蒲団《ふとん》を畳み、
「なに、もういいのです。津田ドクトルのお見立てでは、Pest の疑いがあり、絶望を宣告されたのですが、非常な誤診でした。お正月に数の子を食べすぎただけなんです。日本は、どうも、お正月にはかえって数の子だの豆だの、わざと粗末なたべものばかりで祝うのですからね、痛快な国ですよ。」
 私は机辺に散らばっているたくさんの書籍を見渡した。ほとんど全部が、文芸の書である。独逸《ドイツ》のレクラム本が最も多かったが、また日本の森鴎外、上田敏、二葉亭四迷《ふたばていしめい》などの著作物もまじっていた。
「文芸は、どこの国のがいいのですか?」と私は周さんと向き合って炬燵《こたつ》にもぐり、れいの如く愚問を発した。
「さあ、」と周さんは、その日はひどく快活に、「文芸はその国の反射鏡のようなものですからね、国が真剣に苦しんで努力している時には、その国から、やはりいい文芸が出ているようです。文芸なんて、柔弱男女のもて遊びもので、国家の存廃には何の関係も無いように見えながら、しかし、これが的確に国の力をあらわしているのですからね。無用の用、とでも言うのでしょうか、馬鹿にならんものですよ。僕は、エジプトやインドの文芸はどんなものだか知りたくて、ずいぶん東京のあちこちの本屋へ行って捜してみたのですが、一冊も見つかりませんでした。インドなどは、支那《しな》なんかより、もっと古い文明のあった国なのですから、いま誰かひとり、民族の誇りに眼覚めて、他民族の圧迫に
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