は教会に Krankenbett を求めて出かけ、縁起でもない奴隷《どれい》の話なんか聞かされて、仰天してあなたのところへ飛び込んで、こんな馬鹿々々しい長話なんかして、僕は、まるでもう道化役者のようですね。失礼しました。退屈したでしょう。もうこれで、道化役者は退場です。下宿の人たちは、まだ起きているようですね。案外、僕の話に耳をすましていたんじゃないですか? あの支那人、何をあんなにしゃべくっているのだろう。気味が悪い。早く帰らないと戸じまりすることも出来ない。不用心だ、困る、なんてね。僕は変ったでしょう? あなただけは、わかってくれると思うのですが、どうだかな? 僕はこのごろ、誰をも信じないことにしたのです。じゃあ、さようなら。」
「お願いがあります。玄関の外で、一分間だけ立っていて下さい。」
 周さんは、へんな顔をしたが、幽《かす》かに首肯《うなず》いて外へ出た。
 私は下宿の家族の者たちの居間に向って大声で、
「小母《おば》さん、周さんは帰ったよ。」
「あら、傘《かさ》をお持ちになればよかったのに。」それだけである。あっさりしたものだ。わが意を得たりである。
 私は、玄関の外に立ってこの私たちの会話を聞いている筈《はず》の周さんに逢いに行ったら、周さんはいなくて、暗闇にただ雪がしきりに降っていた。
 所詮《しょせん》は、四十年むかしの話である。私の記憶にも間違い無しとは言えない。しかし、一国の維新は、西洋の実利科学などに依らず、民衆の初歩教育に力をつくして、その精神をまず改造するに非《あら》ざれば成就し難いのではあるまいか、という疑問を周さんの口から最初に聞いたのは、たしかにあの大雪の夜であったと覚えている。この周さんの疑問は、やがて周さんをして文章に関心を持たしめ、後に到って、文豪|魯迅《ろじん》の誕生の因由になったとも考えられない事はないであろうが、しかし、このごろ皆の言っているように所謂《いわゆる》「幻燈事件」に依って、その疑問が、突然、周さんの胸中に湧き起ったという説は、少し違っているのではなかろうかと私には思われる。ひとの話に依れば後年、魯迅自身も仙台時代の追憶を書き、それにもやはり、その所謂「幻燈事件」に依って医学から文芸に転身するようになったと確言しているそうであるが、それはあの人が、何かの都合で、自分の過去を四捨五入し簡明に整理しようとして書いたのではなかろうか。人間の歴史というものは、たびたびそのように要領よく編み直されて伝えられなければならぬ場合があるらしい。どんな理由で、魯迅が自分の過去をそんな工合に謂《い》わば、「劇的」に仕組まなければならなかったか、それは私にもわからない。ただ、彼がその自分の過去の説明を行った頃の支那の情勢、または日支関係、または支那の代表作家としての彼の位置、そのようなところから注意深く辿《たど》って行ったら、或いは何か首肯するに足るものに到達できるのではなかろうか、とも思われるのだが、鈍根の私には、そんなこまかな窮竟《きゅうきょう》はおぼつかない。美女がくるりと一廻転すれば鬼女になっているというのは芝居にはよくある事だが、しかし、人間の生活においてそんな鮮明な転換は、あり得ないのではなかろうか。人の心の転機は、ほかの人には勿論《もちろん》わからないし、また、その御本人にも、はっきりわかっていないものではなかろうか。多くの場合、人は、いつのまにやら自分の体内に異った血が流れているのに気附いて、愕然《がくぜん》とするものではあるまいか。所謂「幻燈事件」というものも、その翌年の春、たしかにあった。しかし、それは彼の転機ではなく、むしろ彼がそれに依って、彼の体内のいつのまにやら変化している血液に気附く小さいきっかけに過ぎなかったように、私には見受けられたのである。彼ヘ、あの幻燈を見て、急に文芸に志したのでは決してなく、一言でいえば、彼は、文芸を前から好きだった[#「好きだった」に傍点]のである。これは俗人の極めて凡庸《ぼんよう》な判断で、私自身さえ興覚めるくらいのものだが、しかし、私などには、どうも、そうとしか思われない。あの道は、好きでなければ、やって行けるものでないような気がする。そうして彼の、かねてからの文芸愛好の情に油をそそいで燃えあがらせた悪戯者《いたずらもの》として、あの一枚の幻燈の画片を云々するよりは、むしろ、日本の当時の青年たちの間に沸騰《ふっとう》していた文芸熱を挙げたほうが、もっと近道なのではあるまいかとさえ私には思われる。当時の日本の文芸熱と来たら、それは大変なもので、文芸を談ぜずば人に非ず、といったような猛勢で、仙台に於《おい》ても、女学生たちは、読んでいるのかどうだかわからぬが、詩集やら小説本やらを得意そうにかかえて闊歩《かっぽ》し、星菫《せいきん》派とか
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