になるかも知れない。子供は遊ぶことばかり考えていますからね。病気をなおしてやっても、すぐまた川へ水浴びに行ったりして、病気をぶりかえして帰って来ますからね。科学の威力に依《よ》って民衆を覚醒《かくせい》させ、新生の希望と努力をうながし、やがてはこれを維新の信仰に導く、なんてのは三段論法にさえなっていないでしょう。恥かしい工夫をしていたものです。屁理窟ですよ。もう僕はあの、科学救国論は全部、抹殺《まっさつ》します。僕はいま、もっと落ちついて考え直さなければいけない。モオゼだって、四十年かかったのですからね。僕は、こんなに途方に暮れた時には、どうしてだか、日本の明治維新を必ず思い出すのです。日本の維新は、科学の力で行われたものではない。それは、たしかだ。維新は、水戸義公の大日本史|編纂《へんさん》をはじめ、契沖《けいちゅう》、春満《あずままろ》、真淵《まぶち》、宣長《のりなが》、篤胤《あつたね》、または日本外史の山陽《さんよう》など、一群の著述家の精神的な啓蒙によって口火を切られたのです。Materiell の慰楽を教化の手段に用いる事はしなかった。そこに、明治維新の奇蹟《きせき》の原由があったのです。自国民の救済に科学の快楽を利用するのは、非常に危険な事でした。それは、西洋人が侵略の目的を以《もっ》て他国の民衆を手なずけるために用いる手段でした。自国民の教化には、まず民衆の精神の啓発が第一です。肉体の病気をなおしてやって、新生の希望を持たせ、それから精神の教化などとそんな廻りくどい権謀《けんぼう》みたいな遠略は一さい不要なのです。人事《ひとごと》ではない。僕自身だって、いま、日本の忠義の一元論のような、明確|直截《ちょくせつ》の哲学が体得できたら、それでもう救われるのですからね。アイスクリイムをなめたって、キャラメルをしゃぶったって、活動写真を見たって、ほんフ一時、気持がまぎれるだけのものじゃありませんか。僕は、日本のあの一元哲学には、身振りが無くて、そうしていつでも黙って当然のことのように実行されているので、安心できるのです。自分の深く信仰している事に就いては、あまり熱狂して騒がぬほうがいいのではないかしら。東京の友人たちは、口をひらけば三民主義、三民主義の連発で、まるでそれが、人間と非人間を区別する合言葉のようになってしまって、あれでは、真の三民主義の信奉者は、いまに竹藪《たけやぶ》にはいってしまうのではないか、と、いや、これは僕のひねくれた妄想に違いないと思うのですが、僕はもう、三民主義とはどんなものだか、それさえわからなくなって来ました。しかし、あの人たちの情熱だけは信じなければならぬ。いや、尊敬しなければならぬ。あの人たちは、自国を独立の危機から救うため命がけで叫んでいるのだ。僕の生きる道も、あの人たちと歩調を合わせて駈《か》けまわるより他にないのでしょう。僕は革命の党員ではないけれども、卑怯《ひきょう》な男ではありません。僕はあの人たちと一緒にいつでも死ぬ覚悟を持っています。僕の船の舵《かじ》は、僕がそれを望むか望まぬかに拘《かかわ》らず、もう既に一定の方角に向って釘《くぎ》づけにされてしまっているようにも思われる。僕は、いまはあの人たちの何か役にたたなければならぬ。それには、まず、どうしたらいいか、と思うと、たちまち、また憂鬱な竹藪が眼前に現出して来るのです。あの人たちは僕を、民族の裏切者と言っています。日本カブレと言っています。しかし、僕には、あの人たちこそ民族を裏切らなかったら、さいわいだと思っています。つまり、僕には政治がわからないのでしょう。僕には、党員の増減や、幹部の顔ぶれよりも、ひとりの人間の心の間隙《かんげき》のほうが気になるのです。はっきりと言えば、僕はいま、政治よりも教育のほうに関心を持っているのです。それも、高級な教育ではありません。民衆の初歩教育です。僕には独自な哲学も宗教もありません。僕の思想は貧弱です。僕は、ただ僕の一すじに信じている孫文の三民主義を、わかり易く民衆に教えて、民族の自覚をうながしてやりたい。まあ、考えつめると、僕があの人たちの仲間としてわずかでもお役に立ち得るのは、そんな極めて低い仕事に於いてだけだというような気がして来るのです。しかし、これだって、僕のような無能者には決して楽な仕事ではありません。僕は一個の医者には、まあ皆から助けられて、どうやらなれるかも知れませんが、教育者は、どうでしょうか。民衆の教育には、日本の維新の例を見ても、著述に依るのが、最も効果的のようですが、しかし、僕の文章は、まるで、なっていません。支那の杉田玄白よりも、支那の頼山陽になるのは、僕には百倍も、むつかしいような気がします。結局、政治家も医者も教育者も、何もかも全部僕にはおぼつかなくて、きょう
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