もう乃公《おれ》は以後、礼のレの字もいうまい、という愚直の片意地が出て来て、やけくそに、逆に礼の悪口をいい出したり、まっぱだかで大酒などという乱暴な事をはじめるようになったのではないかと思うのです。しかし、心の底で、礼教を宝物のように本当に大事にしていたのは、当時この人たちだけだったのです。当時、こんな『背徳者』のような態度でもとらない事には、礼の思想を持ちこたえる事が出来なかったのです。この時代の『道徳家』たちは表面はなはだもっともらしい上品ぶった態度をしていたが、実はかえって礼の思想を破壊しているものであり、全然、礼教を信じていなかったのです。そうして信じている者は、『背徳者』となって竹藪に逃げ込み、ごろつきのように大酒を飲んだのです。僕は、まさか、いま竹藪にはいって、まっぱだかで大酒を飲もうとは思いませんが、しかし、気持は、やはり竹藪の中をさまよっています。僕は儒者先生たちの見えすいた偽善の身振りにあいそが尽きたのです。このことに就いては、あの松島の宿でも、あなたにたくさんたくさん告白した筈ですが、思想が客間のお世辞に利用されるようになったら、もうおしまいです。僕は、この不潔な思想の死骸《しがい》からのがれたくて、新しい学問にあこがれ故郷を捨てて南京《ナンキン》に出たのです。それから後の事も、全部あの時、松島で話したように思います。しかし、僕はこの夏、東京へ行って、さらにもっと苦しい深い竹藪に迷い込んでしまいました。僕には、それが何であるか、わからない、いや、わかっていても、それをはっきり言うのは、おそろしい。もし、僕の疑惑が不幸にして当っていたら、僕は自殺するより他は無いかも知れない。ああ、この疑惑は僕の妄想《もうそう》であってくれたらいい。はっきり、言いましょう、僕はこのごろ、同胞の留学生たちの革命運動にさえ、あの不吉な大袈裟な身振りの匂いを、ふっと感じるようになったのです。熱狂の身振りに、調子を合わせて行けないというのが僕の不幸な宿命かも知れない。僕はあの人たちの運動は、絶対に正しいと思う。僕は孫文を尊敬している。三民主義を信奉している。それこそ宝物のように大事にしている。これが、僕の、最後の、たのみの綱だ。この思想にさえ見放されたら、僕は浮藻《うきも》だ。奴隷だ。それなのに、僕はいま、あの竹林の名士の運命をたどりかけているのだ。僕はずいぶん努力した。留学生たちの情熱は決して間違ってはいないのだ。一緒に叫んでやったらどうだ。てれくさいの何のというのは、お前の虚栄だ。お前には少し、不健康な虚無主義者の匂いがあるぞ。お前の顔には、あの奴隷の微笑があらわれかけているぞ。気をつけろ。お前の心から暗黒を放逐《ほうちく》し、不自然でもかまわぬ、明るい光を添えて見ろ、と自身を叱り鞭打《むちう》って、自分の航路を規定したく、舵《かじ》を釘《くぎ》づけにする気持で、よっぽど僕は革命の党員にしてもらおうかとさえ思ったのですが、しかし、」と言いかけ、急にそわそわし出して、「何時ですか、もう、おそいんじゃありませんか?」
私は時刻を告げた。
「そうですか? も少しお邪魔さしてもらってもいいですか?」と醜い卑屈の笑いを浮べて、「僕はこのごろ、人の気持が、わからなくなってしまいました。支那の者どうしでも、わからない事が多いのに、まして、国籍を異にしている人と人との間では、わからないのは当然でしょうけれど、僕は、あなたに今まで少し甘えすぎていたような気がするのです。あなたばかりではない、藤野先生にも、また、この下宿の父さん母さんにも、僕は少しいい気になりすぎていました。僕は矢島さんなどのあんな手紙が、かえってさっぱりしていていいと思うのです。支那人は劣等だから、いい成績がとれるわけはないと、はっきりした態度を示してくれる。そうすると、こちらの気持もきまって、たすかります。温情は、どうも、つらくていけません。これから、あなたも、どうか思ったとおりの事を僕にいって下さいよ。この下宿では、こんなにおそくまで、僕なんかが話込んでいると、いやがるんじゃないですか。大丈夫ですか?」
私は黙っていた。こんなにいやらしく遠慮するお客ならば、或いは下宿の人たちも嫌悪するかも知れないと思った。
「怒ったようですね。僕は、でも、やっぱり、あなたにだけは安心しているようです。松島以来、あなたにはずいぶんつまらぬ愚痴ばかり聞いてもらいました。医学救国か。」と言って、ふんと笑い、「幼稚な三段論法を、でっち上げたものです。あんなのを、屁理窟《へりくつ》というのですね。科学。どうして僕は、あれほど科学を畏怖《いふ》していたのだろう。子供がマッチを喜ぶたぐいでしょうかね。いじらしいものだ。しかし子供がそのまま科学の武器を使用したら、どんなことになるかな? かえって悲惨なこと
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