いへん支那の現状を知っているような気持でいたのですが、それはみな少年のあまい独《ひと》り合点《がてん》でした。僕は何も知らなかったのです。そうして、いまはいよいよ判らなくなるばかりです。支那の現状どころか、僕自身がいったい、どんな男なのか、それさえわからなくなりました。東京にいる同胞の留学生から、日本カブレと言われました。漢民族の裏切者とさえ言われました。僕が東京で日本の婦人と一緒に散歩しているのを見たという馬鹿らしい事を言いふらしている者もありました。なぜそんなに僕が、皆の気にいらぬのでしょう。支那の悪口を言い、日本の忠義の哲学をほめたからでしょうか。または、あの人たちと一緒に、革命運動に直接に身を投じていないからでしょうか。あの人たちの革命に対する情熱には、僕だって大いに共感しているのです。いまは黄興《こうこう》の一派と孫文の一派の握手もいよいよ実現せられて、中国革命同盟会が成立し、留学生の大半はこの同盟会の党員で、あの人たちの話を聞くと、支那の革命がいまにも達成せられそうな様子なのですが、しかし、僕はどうしてこうなのでしょう。あの人たちの気勢が上れば上るほど、僕の気持がだんだん冷たくなるばかりなのです。あなたは、どうでしょうか。僕は小さい時から、他の人がみんな熱狂して拍手なんかしている場合、それと一緒に拍手するのが、おもはゆいような気持になるのです。堂々たる演説を聞き、内心はとても感激しているのですが、しかし、他の人が大拍手して浮かれているのを見ると、どうしてもその演説に拍手が出来なくなってしまうのです。内心の感動が大きければ大きいほど、拍手なんかするのは、その演説者に対する白々しい虚礼のように思われ、かえって失礼なことではないかしら、黙っているのが本当の敬意だというような気がして、拍手の喧噪を憎みたくなって来るのです。学校の運動会の時の、応援などにも、これと同様の気持を味《あじわ》いました。またキリスト教に就いても、僕は、キリストの『おのれを愛するが如く隣人を愛せよ』という思想には非常な尊敬を感じ、ほとんどキリストにすがりたい気持にさえなった事もあるのですが、しかし、あの教会の大袈裟な身振りは、私の信仰を遮《さえぎ》るのです。あなたがいつか僕にいった事があったけれど、僕は支那人のくせに、孔孟の言を口にしません。あなたたちにとっては、それは不思議な事のように思われるようですが、しかし、僕は努めて口にしない事にしているのです。僕は、まるで駄洒落《だじゃれ》のように孔孟の言を連発する人がきらいなのです。藤野先生のようないいお方でも、あの古聖賢の言をおっしゃる時だけは、僕は、はらはらしてしまうのです。よしてくれないかなあ、と思うのです。僕たちは小さい時から、支那の儒者先生たちから、いやになるほど古聖賢の言の暗誦《あんしょう》を強いられました。そうして僕たちを、ひどい儒教ぎらいの男に育てあげてしまったのです。僕は決して孔孟の思想を軽んじてはいません。その思想の根本は、或《ある》いは仁と言い、或いは中庸と言い、或いは寛恕《かんじょ》と言い、さまざまの説もありますが、僕は、礼だと思う。礼の思想は、微妙なものです。哲学ふうないい方をすれば、愛の発想法です。人間の生活の苦しみは、愛の表現の困難に尽きるといってよいと思う。この表現のつたなさが、人間の不幸の源泉なのではあるまいか。これさえ解決できたならば、それこそ、君は君たり、臣は臣たり、父は父たり、子は子たりの秩序も当然のこととして、歌いながらおのずから出来て、人間はあらゆる屈辱、束縛の苦痛から救われる筈《はず》なのだ。それをあの儒者先生たちは、それを末端の行儀作法の如く教えて、かえって君は臣を侮辱し、父は子を束縛する偽善の手段に堕落させてしまったのです。この傾向は、もう早くからあらわれて、あの魏《ぎ》の頃の竹林の名士なども、この礼の思想の堕落にたえかねて竹林に逃げ込んで、やけ酒を飲んでいたのです。彼等は頗る行儀が悪かった。まっぱだかで大酒を飲んでいた。時の所謂《いわゆる》『道徳家』たちは彼等を、ごろつきの背徳者として罵《ののし》り、いやいまだって上品ぶった正人君子たちは彼等の行状には顰蹙《ひんしゅく》しているのです。しかしあの竹林の名士たちだって、自分たちの生活を決して立派なものだとは思っていなかったのです。仕方が無かったのです。竹藪《たけやぶ》の他に住むところが無くなってしまったのです。世は滔々《とうとう》として礼を名目にして、自己に反対する者には出鱈目《でたらめ》に不孝などの汚名を着せ、これを倒し、もっぱら自己の地位と富の安全を計り、馬鹿正直に礼の本来の姿?M奉している者は、この偽善者どもの礼の悪用を見て、大いに不平だが、しかし無力なので、どうにも仕様がなくて、よろしい、そんならば
前へ 次へ
全50ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング