がその同胞を奴隷の境涯から救うのにどれほどの苦労をしたか、それを聞いて、ぞっとしました。エジプトの都会の貧民窟《ひんみんくつ》で喧噪《けんそう》と怠惰《たいだ》の日々を送っている百万の同胞に向って、モオゼが、エジプト脱出の大理想を、『口重く舌重き』ひどい訥弁《とつべん》で懸命に説いて廻ってかえって皆に迷惑がられ、それでも、叱ったり、なだめたり、呶鳴《どな》ったりして、やっとの事で皆を引き連れ、どうやらエジプト脱出には成功したものの、それから四十年も永い年月荒野を迷い歩き、脱出してモオゼについて来た百万の同胞は、モオゼに感謝するどころか、一人残らずぶつぶついい出してモオゼを呪《のろ》い、あいつが要《い》らないおせっかいをするから、こんなみじめなことになったのだ、脱出したって少しもいいことがないじゃないか、ああ、思えばエジプトにいた頃はよかったね、奴隷だって何だって、かまわないじゃないか、パンもたらふく食べられたし、肉鍋《にくなべ》には鴨《かも》と葱《ねぎ》がぐつぐつ煮えているんだ。『我儕《われら》エジプトの地において、肉の鍋の側に坐り、飽《あく》までにパンを食いし時に、エホバの手によりて、死にたらばよかりしものをB汝はこの曠野《あらの》に我等を導きいだして、この全会を飢《うえ》に死なしめんとするなり。』などと思いきり口汚い無智な不平ばかり並べるのですからねえ、僕は自国の現在の民衆と思い合せて、苦しくて、そのお説教をおしまいまで聞いて居られなくなって、途中で逃げて来たのですが、何だかひどく淋しくて、あなたのところに駈け込んで来たのです。絶望、いや、絶望というのもいやらしい、思わせぶりな言葉だ。何といったらいいのでしょう。民衆というものは、たいていあんなものなのですからね。」
「でも、僕は聖書の事はさっぱり知らないのですけれども、そのモオゼだって、ついには成功したのでしょう。ピスガの丘の頂《いただき》で、ヨルダン河の美しい流域を指差し、故郷が見える、故郷が見える、と絶叫するところがあったじゃありませんか。」
「ええ、しかし、それまで四十年間の歳月、飲まず食わずの辛苦を不平の同胞にこらえてもらわなければならなかったのですよ。出来る事でしょうか。五年や十年ではありません。四十年ですよ。僕は、もう、わからなくなりました。ことしの夏を東京ですごして、僕の得たものは、やはりこんな、民衆を救う事に対する懐疑でした。きょうはひとつまた、僕の長広舌を聞いてもらいます。松島の気焔は楽しかったが、今夜の告白は、暗澹《あんたん》たるものです。」と言って、にっと笑い、「僕はいま笑いましたね。なぜ笑ったのでしょう。エジプトの奴隷もきっとこんな工合の、自分にもわからない笑いを時々もらしたに違いない。奴隷だって笑います。いや、奴隷だから笑うのかも知れません。僕はこの仙台のまちを散歩している捕虜《ほりょ》の表情に注意していますが、あの人たちは、あまり笑いません。何か希望を持っている証拠です。早く帰国したいと焦慮しているだけでも、まだ奴隷よりはましです。僕も、たまにはあの人たちに、パピロスをやりましたが、あの人たちは当然だというような顔をして受取ります。あの人たちは、まだ奴隷にはなっていません。」その頃、仙台に露西亜《ロシア》の捕虜が、多い時には二千人も来て、荒町や新寺小路附近の寺院、それから宮城野原の仮小屋などにそれぞれ収容されていて、そのとしの秋あたりから自由に市内の散歩もゆるされ、露西亜語で正確にはどう発音されるのか知らないが、しきりにパピロスをほしがり、それは煙草の事を意味しているらしく、仙台の子供たちさえ、いつのまにかそのパピロスという言葉を覚えてしまって、捕虜たちに向って、パピロスほしいか、と呼びかけて捕虜が首肯《うなず》くとよろこび勇んで煙草屋に駈けつけ、煙草を買って与えて、得意がっていたものである。「僕は、あの人たちにパピロスを与えて、それでも、あの人たちがあまりに平然としているので、何か僕のほうで恥かしいような気がしたものです。侮辱をさえ感じました。ひょっとしたらこの捕虜は、僕が支那人である事を見抜いているのではないか。そうして支那の現状が、そろそろ列国の奴隷になりかけているのを知って、彼等は、僕に対してだけ特に、優越感を抱いているのではなかろうか、いや、たしかにそれは僕のひがみなんです。そうです。僕がこんど東京で覚えて来たものは、この、ひがみです。僕は、不安なのです。自国の民衆の救済に就《つ》いて、非常な不安を感じるようになりまオた。いま思えば、あの松島に於ける気焔は、非常に幼稚なものでした。自分のあの頃の単純幼稚がなつかしいと同時に、恥かしい。思い出しては、ひとりで赤面しています。なんとまあ、あどけない理論に酔っていたのでしょう。僕はあの頃、た
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