づき難いものが感ぜられて、学校で顔を合わせても、互いに少し笑って、
「元気?」
「ああ。」
など頗《すこぶ》る卑怯な当りさわりのない挨拶《あいさつ》を交すだけで、藤野先生から言いつけられたような慰安激励の話題を一つも持ち出す事が出来なかった。また、下手《へた》にそんな事を言い出して、敏感な周さんをかえって窮屈がらせるような結果になっても、つまらないと思い、このたびのノオトの災難も何も、私は一さい知らぬ振りを装《よそお》うていた。
ところが、一週間ほど経って、なんでも雪のひどく降っている夜だった。周さんが、頭から外套《がいとう》をすっぽりかぶり、全身雪で真白になって私の下宿にやって来た。
「さあ。おあがり。さあ。」と私は、この久し振りの周さんの来訪に胸を躍らせ、玄関に飛んで出て歓迎したが、周さんは、へんに尻込《しりご》みして、
「いいの? 勉強中じゃない? 邪魔じゃないの?」など、ついぞいままで見せたこともないようなおどおどした遠慮の態度を示し、ほとんど私にひっぱり上げられるようにして、部屋へはいり、
「いまね、そこの美以《めそじすと》教会に行って、その帰りなんですがね、淋しくてたまらないので、ちょっと立寄ってみたのです。お邪魔じゃない?」
「いいえ、僕はいつでも遊んでいるようなものです。しかし、教会とは、またどうしたのです。」
周さんは私と同様、キリストの隣人愛には大いに敬意を表し、十字架につかざるを得ない義人の宿命を仰恋する事に於いても敢《あ》えて人後に落ちるものでは無かったが、しかし、どうも、教会の職業的なヤソ坊主の偽善家みたいな悲愴《ひそう》な表情や、またその教会に通う若い男女のキザに澄ました態度に辟易《へきえき》して、仙台の市中にずいぶんたくさん散在している教会堂にも、もっぱら敬遠の策をとり、殊に周さんなどは、ヤソのヤソくさきは真のヤソに非《あら》ず、と断じ、支那の儒者先生たちが孔孟の精神を歪曲《わいきょく》せしめたように、キリストの教えも、外国のヤソ坊主たちが堕落せしめてしまったのだ、とさえ語っていた事があった。それなのに、いま彼は、美以教会に行って来たという。
周さんは、はにかみながら、
「いや、僕はこのごろ、Kranke なんです。それで、みんなにごぶさたして、もう、全く einsam の烏になってしまいました。でも、あのころは楽しかったですね。松島で一緒に泊って、幼稚な気焔《きえん》を挙げたりして、」といいかけて眼を伏せ、こたつにもぐったまましばらく黙っていて、それから急に顔をあげ、「実はね、きのう矢島さんが僕の下宿にあやまりに来たのです。あの手紙は矢島さんが書いたんですってね。」
その経緯《いきさつ》は、私も津田氏から聞いて知っていた。矢島君は、藤野先生から犯人捜査の依頼を受け、そうして、これからも周さんをいたわってやるようにいわれ、彼にもやはり東北人特有の道徳における潔癖性とでもいうものがあったのか、または、彼の信仰しているキリスト教に依って反省の美徳を体得していたのか、矢庭《やにわ》に泣き出して、その手紙の筆者は自分である、と自白し、このたびの愚かな誤解を深謝し、すすんで幹事の辞職を申し出て、後任には津田氏を推したが、津田氏もそうなると受けかねて、結局、幹事は矢島、津田の二名ということになって、四方八方まるく収《おさま》った様子で、津田氏は私の背中を、軍師、軍師、と言って叩《たた》いた。軍師も何も、私の無策が意外に成功しただけの事なのである。
「僕はノオトを、いつも藤野先生に直していただいているので、あんな誤解の起るのもむりが無いのですよ、僕はかえって、あの人に気の毒でした。前はあの人をあまり好きじゃなかったけれども、いろいろ話合っているうちに、なかなか正直な人だという事がわかりました。僕はちょっと皮肉のつもりで、あなたはクリスチャンでしょう? と言ってやったら、あの人は、まじめに首肯《うなず》いて、そうです、クリスチャンだから罪を犯さないという事はありません。かえって僕のようにたくさんの欠点をもっていて、罪を犯してばかりいる悪徳者こそ、クリスチャンの選手になるのです。教会は、僕のような過失を犯し易《やす》い者の病院です。Krankenhaus です。そうして福音は僕たち Herz の病人の Krankenbett です、と言うのです。その矢島さんの言葉が、へんに痛く僕の心にしみて、僕もふっと、その Krankenhaus の扉《とびら》をたたいてみたくなったのです。僕はいまたしかに Kranke なのです。それできょう、ふらふら、教会に行ってみたのですが、でも、どうもあの西洋風の大袈裟な儀礼には納得できないものがあって、失望しました。しかし、説教がちょうど旧約の『出エジプト記』の箇所で、モオゼ
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