言えない事もない状態であったのである。
「六十番か。」先生には、その六十番も気に入らぬ様子で、「あんまり、結構な成績でもないやないか。もっと勉強しなけりゃ、いかんなあ。いったい前学年の君たちの解剖学は、不出来やった。解剖学は医学の基礎やから、もっと、みっちりやって置かないと、後悔する時がありますよ。お互い怠《なま》けているから、こんどのようなそんな阿呆《あほ》らしい問題が起る。互いに励まし合って勉強して居れば[#「ば」は底本では「は」]、誤解も嫉妬《しっと》も起るものじゃない。和というのは、決して消極的なものではないのです。発して皆、節に中《あた》る、之《これ》を和と謂《い》う、と中庸にもあったやろ。天地躍動の姿です。きりりとしぼって、」と先生は弓を満月の如くひきしぼる手振りをして見せて、「ひょうと射た矢があやまたず的のまんまん中に当って、すぽんと明快な音がする、あの感じ、あれが、和やな。発して皆、節にあたる。この、発して、を忘れてはいかん。勉強するんだね。和を以《もっ》て貴《とうと》しと為《な》す、というお言葉もあるが、和というのは、ただ仲よく遊ぶという意味のものでは無い。互いに励まし合って勉強する事、之を和と謂う。君は周君の親友らしいが、あの人は、支那に新しい学問をひろめようとして、わざわざ日本に勉強しにやって来たのだから、大いに励まして、もっといい成績をとるように忠告してやらなけれあいかん。私も、いろいろ気をもんでいるのだが、どうも、六十番では情無い。一番か二番にならなければいけない。日本も昔は唐宋に学生が勉強しに行って、いろいろあの国のお世話になったものです。こんどは日本がその御恩がえしに、向うの人たちにこちらの知っている事を教えてあげなければならぬのだが、どうも、周囲の日本の書生さんが遊んでばかりいてちっとも勉強しないものだから、周君たちが、せっかく高邁《こうまい》の志を抱いて日本に渡って来ても、つい巻き込まれて、怠けてしまう。君が本当に周君の親友なら、こんど私は君たち二人に研究の Thema を与えてやってもよい。纏足《てんそく》の Gestalt der Knochen など、どうだろうね。なるべくなら、周君に興味のあるテエマがよいと思う。でも、これは、いまのところ私の手許に Modell が無いから、むずかしいかな? とにかく、周君にもっと、医学に対する Pathos を持たせるようにしむけてやらなければいかん。周君は、このごろ、元気が無いようやないか? 解剖実習など、いやがっトいやせんか? 支那人は、Leichnam には独自の信仰を持っていて、火葬にはせず、ほとんど土葬らしい。中庸にも、鬼神の徳たる其《そ》れ盛なり矣とあるように、死後の鬼というものを非常に畏《おそ》れ敬っている。或いは、周君のこのごろの銷沈《しょうちん》は、私たちが Leichnam をあまりに無雑作に取扱うので、それで医学にも、少し厭気《いやけ》がさして来たというようなところに原因がありはせぬか? もしそのようだったら、君はこう周君に言ってやるがいい。日本の Kranke は、死後に、医学の発達に役立つ事をたいへんよろこんでいる、殊にもそれが、やがて支那のお国にも役立つのだと知ったら、むしろ光栄に思うだろう、とそう言って勇気をつけてやるんだね。解剖実習くらいで蒼《あお》くなっていたんでは、将来、小さな Operation ひとつ出来やしないんだからね。」と周さんの事ばかり言っている。
「あの、それでは、手紙のほうは、どうしたらいいのでしょうか。」
「それは何も気にする事はない。ただ、こんな事で、周君が学校がいやになったりなどすると困るから、その点は、君からよろしく周君をなぐさめ、鼓舞《こぶ》してやるのですね。手紙の件は黙殺して置いてもいいだろうが、また津田君なんか出しゃばって騒ぎを大きくしてもつまらないから、まあ、私から幹事に、その手紙を書いた者を捜すようにいってやりましょう。誰が書いたのかそんなことは私に報告する必要はないが、その書いた者は、周君の下宿に行き、よくノオトを調べて、自分の非をさとったら素直に周君と和解するように、まあ、そんなところでいいやないか? 幹事は、こんどは、矢島君でしたかね?」
 その幹事が、手紙の主だから困るのだ。しかし、その矢島に、先生が犯人捜査を依頼するのもちょっと皮肉で、面白い結果になるかも知れないと思ったので、
「ええ、そうです。それでは、矢島君に、どうぞ。」と云って、くるりと廻れ右したら、背後から、
「周君だけでなく、君たちも皆もっと勉強しなけれあいかんな。各人自発、之を和という。」と、どやされた。
 この事件が、周さんの心にどんな衝動を与えたか、それは私にもわからない。その頃の周さんの態度には、何か近
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