だ。君は、どうも、周さんとばかり附合っているからいけない。君の名の田中卓を、クラスの者たちは陰で、田中卓《でんちゅうたく》と呼んでいるのだが、君は知るまい。どうだ君は田《でん》さんという名前なんだぜ。不愉快だろう?」
 私はそんな事は別に気にならなかった。しかし、津田氏がこんどの問題をなぜ私のところへ持ち込んで何のかのと支離滅裂な八つ当りの言辞を弄《ろう》し騒ぎ立てているのか、鈍感な私にも、少しずつわかって来た。津田氏はやはり矢島にクラス会幹事の名誉職を奪われたのがくやしいのだ。それでこの失意憂鬱の小政治家は、このたびの矢島の手紙を問題化させて、矢島に幹事辞職を迫り、かわって自分がふたたびもとのように堂々たる肩書のついた名刺を振りまわしてみたい、という可憐なたくらみを持って私のところにやって来たのに違いない。まず、周さんと一ばん仲のよい私にたきつけ、私が激昂《げっこう》して、またいつかのように藤野先生に御注進申し上げ、そうして、藤野先生は愕然《がくぜん》として矢島を呼び、彼を大いに叱咤《しった》して幹事の栄職を剥奪《はくだつ》する、というようなうまい段取りになりはせぬかと夢想して、こうして騒いでいるのではないかしらんとさえ疑われ、そう思ったら、いよいよ興覚めて、
「あなたは前から、そんな色んな事を知っていながら、どうして、矢島君たちに周さんの潔白を証明してやらなかったのです。」と口を尖らして言ってやった。
「それは、僕が言ったって駄目だ。あいつらは、僕もまた周さんの一味だときめてしまっているのだからね。僕と君と藤野先生と周さんと、この四人が、いまのところ、同様の被告みたいなものなのだ。実にけしからんじゃないか。あの藤野先生の御人格をさえ疑うとは、全くひどいよ。これはどうしても、僕たちのほうでも団結して対策を練らなければならぬ。君は、とにかくあした藤野先生のところに訴えに行き給え。僕はまた後で、ほかに同志を糾合《きゅうごう》するから。」
 果して、私の疑惑のとおりであった。私は、イヤになった。もう、矢島を殴るつもりも何も吹っ飛んで、早くこの馬鹿らしい政争から脱け出したかった。
「一つ約束していただきたいんですけれど、」と私は冷い頑固《がんこ》な気持になり、「僕はそれではあした藤野先生の研究室にまいりますから、先生から何かお指図《さしず》があるまで、この手紙の事は誰にも言わないようにしてくれませんか。」
「なぜさ。」津田氏は、口をへの字に曲げて私を睨《にら》んだ。
「なぜでも。」と私は努力して微笑し、「とにかく、その同志糾合は、二、三日待ってくれませんか。でないと、僕はあなたの敵になりますよ。」
 いまはただ、周さんが可哀想であった。また、周さんの勉強にあれほど力こぶをいれていた藤野先生にも、お気の毒であった。私の関心は、もはや、それだけであって、あとは、どうでもよくなったのである。
「そうかねえ。」と、津田氏はいまいましそうにそっぽを向いて、「君は、どうも、僕を信頼していないようだねえ。」
 私はそれにかまわず、
「あなたが約束してくれなければ、僕はあなたの敵になって、藤野先生にも、うんとあなたの悪口を言います。」
「それは、しかし、乱暴じゃないか。」
「乱暴でもいいんです。敵になるんだから。どうですか、約束してくれますね?」と私は図に乗って強く念を押した。
 津田氏はしぶしぶ首肯《うなず》いて、
「東北人は、おれあ、苦手だ。」と小声で言った。
 翌《あく》る日、私は藤野先生の研究室に行き、事情をかいつまんで報告して、
「津田さんも、非常に憤慨して、先生のお指図を待ち何かお役に立ちたいと言っています。」と津田氏の心懐を美しく語り伝え、もちろん矢島の名前などもいっさい出さず、ただ、こんな誤解を周さんのために消滅して下さるようにとお願いした。
「消滅させるも何も、」と先生は案外にのんきな笑顔で、「周君の解剖学は落第点や。他の学科の点数がよかったから、まあ、あれだけの成績を収めたのです。周君は、あれは、何番だったかしら。」
「さあ、六十番くらいだったでしょうか。」私たちが一学年から二学年に進む時には、ばかに落第生が多かった。同級生の三分の一、約五十人が落第の憂目に遭《あ》い、私も津田氏も共に八、九十番という危いところでやっと及第したのであって、異国の周さんが六十番というのは、秀才でしかも勉強家の周さんにとっては当然の成績のように私たちには思われるのだが、しかし、周さんをよく知らない者には、その六十番は、何だか怪しいもののように感ぜられたかも知れない。殊にも落第生たちは、おのれの不勉強を棚に上げ、進級生たちに何かと難癖《なんくせ》をつけて見たいだろうし、その進級生全部の犠牲になって槍玉《やりだま》にあげられたのは清国留学生の周さんだ、と
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