もさらなり、わが文部省、外務省も、清国政府に対し陳謝しなければならなくなるやも計り難い。実に、日支親善外交に、一大汚跡を、踏み残す事になる。君は之《これ》に就いてどう思うか、と言うのだが、まいどの事でもあり、私はれいのとおり、いい加減に聞き流して、
「周さんは、その手紙を見たのですか?」
「見た。きょう僕たちが一緒に学校から帰ったら、この手紙が下宿にとどいていたのだ。周さんはそれを帳場から受取って無雑作にポケットにいれて、階段を昇って行ったが、この時、僕には一種の霊感が働いた。ちょっと、と呼びとめた。いまの手紙をここで開封してくれ給え、と言った。周さんは、廊下に立ちどまり、黙って手紙の封を切った。そうして内容を、ほんのちょと読んで、破ろうとした。」
「そうでしょう。こんな不潔な手紙、誰だって破りたくなりますよ。」
「まあ、そう言うな。とたんに僕はその手紙を取り上げて読んで、きゃついよいよやりやがったな、と。」
「なあんだ。あなたは、この手紙の差出人を知っているらしいじゃないですか。」
「何を隠そう、知っているんだ。矢島だ。あいつだ。あの Landdandy さ。」
 そう言われて私は、ふっと、数日前の小さい出来事を思い出した。藤野先生の時間だ。先生が教室へはいっていらっしゃると同時に、クラス会の新幹事の矢島が、つと立って行って黒板に、明日クラス会開催の事を記し、そうして、全部漏れなく出席せられたし、と書き添え、それから「漏」という字に二重丸を附けた。五、六人の生徒は、どっと笑った。私は、いつもクラス会には人が集らないから、特に「漏れなく」という事を強調したのだろう、くらいに軽く考えていた。しかし、それは矢島の陋劣《ろうれつ》なあてこすりだったのだ。そこには藤野先生も周さんもいるから、試験問題の「漏洩《ろうえい》」を暗に皮肉るつもりで、矢島が卑屈の小細工をしたのだ。それに気がついたら、むっとして来て、
「殴《なぐ》ってしまいましょう。」ただ、きたならしいものとして黙殺するくらいでは、すまないと思った。私は自分の平凡な六十年の生涯に於いて、ひとを本気に殴ろうと思ったのは、この時いちどだけと言ってよい。今夜これから彼の家へ行って、存分に打ち据《す》えて来ようと思った。私はこの矢島という立派な口髭《くちひげ》をはやした生徒を、前から大きらいだったのである。彼は仙台の東北学院だか何だかのキリスト教の学校の出身で、まさかそのせいでも無かろうが、周さんの語彙《ごい》を借りて言えば、伊達藩の der Stutzer, また、津田氏の言にしたがえば、田舎《いなか》ダンディ、そんな感じのいやに尊大ぶった男で、はじめは教室でも神妙らしくしていたが、親爺《おやじ》が何でもこの仙台の大金持とやらで、その親爺の七光りが次第にものを言い出して来たというわけでもあろうか、いつのまにやらクラスの顔役みたいなものになってしまって、この新学年のクラス会幹事の改選には、津田氏を蹴《け》って彼が新幹事として登場したのである。私は、東京、大阪から来た生徒が、東北を田舎あつかいにして軽蔑する態度にも賛成できなかったが、しかし、それに対して東北の地元の生徒たちが陰険に何かしめし合せて卑屈な仕返しをしようとする傾向にも承服できないものがあった。殊に私自身が東北人の端《はし》くれであるから、そんな田舎者のひねこびた復讐心を見せつけられた時には、自己嫌悪みたいなものも加えられて、東京、大阪の生徒よりも一層つよく地元の生徒を憎みたい気が起って来るのである。
「殴っちゃいけない。それは、私闘だ。」と津田氏は、私が興奮しはじめたら、急に落ちつき払った態度を示し、「相手は、矢島ひとりではない。田舎っぺいの取巻きがたくさんいる。僕はこの機会に、あいつらの排他的な思想を膺懲《ようちょう》してやろうと思っているのだ。お互いに紳士じゃないか。思想の合戦で行こう。」
「でも、津田さん。私も田舎っぺいですよ。」どんな意味で使ったにせよ、私には、田舎っぺいという言葉は耳に快くなかった。地元の矢島も頗る面白からぬ人物だが、しかし、こんな言葉を使用する東京人の津田氏の心理もあんまり高潔とは言えない、どっちもどっちだ、と思い直してしまった。
「いや、君はべつだ。君は、決して田舎者じゃない。君は、そうだね、」と困ったような顔をして、「或る意味では、むしろ、都会人とでも言いたいのであるが、」といよいよ窮して、「そうだ、君は支那人だ! そうなんだよ、君。」
 私は、あっけにとられた。
「君は、だから、同じ東北人の矢島たちからも敬遠されているのだ。」と津田氏は、いかにも、もっともらしい口調で、「つまり君の現在の立場は、周さんと同一なのだ。僕は決してそうは思わないが、君の顔が支那人に似ているというのがクラスの定評なの
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