顔を仙台で見た時、私は、おや? と思った。どこがどうというわけではないが、何だか、前の周さんと違っているのだ。よそよそしいという程でもないが、瞳孔《どうこう》が小さくするどくなった感じで、笑っても頬にひやりとする影があった。
「東京はどうでしたか。」と尋ねても、妙に苦しそうに笑って、
「東京は、もう、みんないそがしくて、電車の線路が日に日に四方に延びて行って、まあ、あれがいまの東京の Symbol でしょう、ガタガタたいへん騒がしくて、それに、戦争の講和条件が気にいらないと言って、東京市民は殺気立って諸方で悲憤の演説会を開いて、ひどく不穏《ふおん》な形勢で、いまに、帝都に戒厳令が施行せられるだろうとか何とか、そんな噂《うわさ》さえありました。どうも、東京の人の愛国心は無邪気すぎます。」
「お国の学生たちに、忠の一元論はどうでしたか、何か反響がありましたか。」
 周さんは急に歯痛が起ったみたいに頬をゆがめて、
「これもまた、いそがしくて、何が何やら、僕には、もうわからなくなりました。日本人の愛国心は不穏でも何でも、本質が無邪気で明るいけれども、僕のほうの愛国心は複雑で暗くて、いや、そうでもないのかな? とにかく、僕には、わからない事が多い。むずかしいのです。なんにも、わからない。」と冷たく微笑して、「しかし、日本の青年たちは、いまずいぶん世界の文学を研究していますね。本屋へ行ってみて、驚きました。各国の文学の書物が、どっさり入荷していて、日本の若い人たちは、熱心にあれこれ選んで買っています。何か、生命の充実、とでもいうようなものに努めているのでしょうかね。僕も真似《まね》して、少しそんな書物を買って持って来ました。負けずにこれから研究してみるつもりです。僕の競争相手は、あんな東京の若い人たちです。あの人たちは何か新しい世界に erwachen しているようです。まあ、東京に就《つ》いての御報告は、そんなものです。」
 そうして、授業がすむと、さっさと自分の下宿に帰って行き、以前のように私の下宿に遊びに来る事もほとんど無くなった。木枯しの強い夜、めずらしく、れいの津田氏が、へんな顔をして私の下宿にやって来て、
「おい、いやな事件が起ったよ。」と言い、ポケットから一通の手紙を出して私に見せた。宛名《あてな》は、周樹人殿、としてある。差出人は、直言山人、となっている。下手《へた》な匿名《とくめい》だなあ、といささか呆《あき》れ、顔をしかめて手紙の内容を読んでみた。内容の文章は、さらにもっと下手くそであった。字も、いやに肩を怒らした野卑な書体で、どうにも、くさいにおいが発するくらいに、きたならしい手紙であった。まず、
 汝《なんじ》悔い改めよ!
 と大書してある。私は、ぞっとした。私はこんな予言めいたキザな言葉は、昔も今も大きらいである。つづいて、珍妙な、所謂「直言」が試みられている。何だか、くどくどした「直言」で、頗《すこぶ》るわかりにくいものであったが、要するに、汝は卑怯《ひきょう》である、汝は藤野先生から解剖学の試験問題を、あらかじめ漏らしてもらっていたのだ、その証拠には、汝の解剖学のノオトには、藤野先生が赤インキで何やら印をつけてある。汝には及第の資格が無いのだ、悔い改めよ! という事なのである。
「なあんだ、これは。」私はその手紙を破ろうとしたら、津田氏はあわてて、
「あ、待て待て。」と言い、素早く手紙を私から奪い取り、「大事件だよ、これは。君とこれから、いろいろ相談してみたいんだ。実に不愉快な事件だ。酒でも飲まずには居られない気持だ。この家に、お酒が少し無いかしら。」
 私は苦笑して、下宿の家族の者に、お酒はありませんか、と尋ねた。お酒は今夜、亭主が飲んでしまったが、ビイルならある、という女房の返事だ。
「ビイルでいいですか?」と津田氏に聞くと、津田氏はちょっと悲痛な顔をして、
「ビイルか。木枯しを聞きながら、ビイルは野暮《やぼ》の骨頂だが、まあ、よかろう。かまわぬ。持って来い。」
 津田氏はひとりでビイルをぐいぐい飲み、
「わあ、寒い。秋のビイルは、いかん!」と叫び、わなわな震え出し、それから、どもりどもりこんどの事件の重大性に就いて説きはじめたのであるが、なにせ、唇を紫色にして全身ぶるぶる震わせながらの講釈であるから、さすがに少し、ただ事で無いようなものものしい雰囲気《ふんいき》も出て来た。
 これは国際問題だ、と彼はれいの如く大袈裟な事を言うのである。周さんは一人に似て一人では無い。いま、清国留学生は日本全国に散在して、その数すでに一万ちかくに及んでいる。すなわち、周さんの背後には、一万名の清国留学生が控えている。周さんひとたび怒らば、この一万の留学生は必ず周さんを応援して立ち上る。しかる時には、仙台医専の不名誉は言う
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