わん》のたべものを少しわけてやっているのを見て、郭巨は恐縮し、それでなくても老母のごはんが足りないのに、いままたわが三歳の子は之《これ》を奪う、何ぞこの子を埋めざる、というひどい事になって、その絵本には、その生埋めの運命の三歳の子が郭巨の妻に抱かれてにこにこ笑い、郭巨はその傍で汗を流して大穴を掘っている図があったのですが、僕はその絵を見て以来、僕の家の祖母をひそかに敬遠する事にしました。だって、その頃、僕の家がそろそろ貧乏になっていたし、もしも祖母が僕に何かお菓子でもくれたら、僕の父は恐縮し、何ぞこの子を埋めざる、と言い出したらたいへんだと思ったからです。急に、家庭というものがおそろしく思われて来ました。これでは、儒者先生たちのせっかくの教訓も、何にもなりません。逆の効果が生れるだけです。日本人は聡明《そうめい》だから、こんな二十四孝を、まさか本気で孝行の手本なんかにしてはいないでしょう。あなたは、お世辞を言っているのです。僕はこないだ、開気館で二十四孝という落語を聞きましたよ。お母さんに孝行しようと思って筍を食いたくないかとお伺いすると、お母さんは、あたしゃ歯が悪くて筍はまっぴらだと断る話。日本人は、頭がいいと思いましたよ。愚説にだまされやしません。文明というのは、生活様式をハイカラにする事ではありません。つねに眼がさめている事が、文明の本質です。偽善を勘《かん》で見抜く事です。この見抜く力を持っている人のことを、教養人と呼ぶのではないでしょうか。日本人は、いい教養を祖先から伝えられているのですね。支那の思想の健全なところだけを、本能のように選んで摂取《せっしゅ》しますからね。日本では支那を儒教の国と思っているようですが、支那は道教の国です。民衆の信仰の対象は、孔孟でなく、神仙です。不老長寿の迷信です。けれども、日本では、そんな不老不死の神仙説のほうには、てんで見むきもしません。いい笑い草にしています。仙人という言葉を、白痴か気違いの代名詞くらいに考えています。日本の思想は、忠に統一されているのですから、神仙も二十四孝も不要なのです。忠がそのまま孝行です。先日一緒に見た芝居の政岡も、わが子に忠だけをすすめています。母に孝行せよという教育はしていません。しかし、忠がすなわち孝なのだから、あれでかまわないのです。そうして日本の人は、それを見て皆泣いています。仙人や二十四孝は、落語にされて、これは笑いの種になっています。」
「いや、どうも、」と私は内心、恐悦《きょうえつ》の念禁じ難く、「日本人は口が悪いですからね。べつにお国のそのような教えを軽蔑しているわけではないのですが、どうも辛辣《しんらつ》な嘲笑癖《ちょうしょうへき》があっていけません。」
「いいえ、日本人の悪口は、威勢がいいだけで、むしろ淡泊《たんぱく》です。辛辣というのは当りません。支那には他媽的《タマテイ》という罵言《ばげん》がありますが、これなどが本当の辛辣といっていいでしょう。ひどい言葉なんです。あまりに下劣で、意味は言いたくありませんが、おそらく世界中でこんな致命的な罵言を発明する民族は、他にはありますまい。これだけは世界一です。」
「そのタマテイとかいうのはどんなものだか知りませんけれど、しかし、それだけでなく、支那には何か世界一というような感じのものが、他にもたしかにあるような気がします。これは僕のいわば、まあ、勘だけで言っているのですが、お国には、僕たちの想像を絶した偉大な伝統が流れているような気がしてならないのです。あなたは、ずいぶんお国の事を悪く言いますが、しかし、藤野先生もおっしゃっていました、支那にいい伝統が残っているから、その伝統の継承者に、その反抗者も出て来るのだ、と言っておられましたが、僕はあなたが支那の批判をするのを聞いていて、いつもかえって支那の余裕を感じるのです。支那は決して滅亡しません。あなたのような人が、十人いたら、支那は名実ともに世界の一等国になります。」
「おだてちゃいけません。」と周さんは苦笑して、「支那もいまのままでは、だめですよ。絶対にだめです。余裕なんて、そんないい加減な自負心を持っているうちは、だめです。日本の人は、みな、襷《たすき》がけです。ムキです。まじめです。支那は、日本のこの態度を学ばなければいけないのです。」
 その頃、何かにつけて、こんな工合に周さんと、日支比較論議とでもいうべきものが風発せられたのである。周さんは、この学年がすんで夏休みになったら、東京へ行き、同胞の留日学生たちに、周さんの発見した神の国の清潔|直截《ちょくせつ》の一元哲学を教えて啓発してやるのだと意気込んでいたが、やがて夏休みになり、周さんは東京へ、私は山奥の古里に、二箇月ばかり別れて暮し、九月、新学年の開始と共に、また周さんのなつかしい
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