お気に召したようであった。周さんは、風景にはあまり心をひかれないなどと言いながら、それでも、お月様だけは、まんざらきらいでも無いらしい。しかし、それよりも、周さんをして長大息を発せしめたものは、この短いたよりの中に貫かれている鮮《あざ》やかな忠義の赤心であった。
「はっきりしていますね。」と周さんは、何か自身が大きいお手柄でも樹《た》てたみたいに得意そうな面持で語るのである。「なんの躊躇《ちゅうちょ》も無く、すらすらと言っていますね。天皇陛下の御ためにつくせ、と涼しく言い切っていますね。まるで、もう 〔natu:rlich〕 なのですね。日本人の思想は全部、忠という観念に einen されているのですね。僕はいままで、日本人には哲学が無いのではないかと思っていたのですが、忠という Einheit の哲学で大昔から Fleischwerden されているのが日本人だとも言えるのじゃないかしら。その哲学が、あまり purifizieren されているので、かえって気がつかなかったのですね。」とれいの如く、興奮した時の癖で、さかんに独逸《ドイツ》語を連発しながら感心している。
「でも、忠孝の思想は、お国から日本に伝って来たものじゃないですか。」と私は、わざと水を差すような事を言ってみた。
「いいえ、そうではありません。」と周さんは、即座に否定して、「ご存じでしょうが、支那の天子は、万世一系ではなく、堯舜《ぎょうしゅん》の禅譲《ぜんじょう》にはじまり、夏《か》は四百年十七代、桀王《けつおう》に及んで成湯《せいとう》のため南巣《なんそう》の野に放逐《ほうちく》され、これがまあ支那における武力革命の淵源とでもいうのでしょうか、爾来《じらい》しばしば帝位の巧取豪奪が繰り返され、いずれも事情やむを得ざる Operation であったとしても、その新しく君臨した者は、やはりどこやら気がとがめるらしく、たいてい何か自己弁解のような事を言い出して、忠という観念を、妙に複雑なあいまいなものにして置いて、そのかわり、と言ってもおかしいが、孝のほうを大いに強く主張し、これをもって治国の大本とし、民の倫理をも、孝の一色で塗りつぶそうとする傾向が生れて来たのです。だから、支那では、忠孝とは言っても、忠は孝の接頭語くらいの役目で添えられているだけで、主格は孝のほうにあると言っていいのです。しかし、この孝も、もともとそんな政策の意味が含められて勧奨された道徳ですから、上の者はこれを極度に利用して自分の反対者には何でもかでも不孝という汚名を着せて殺し、権謀詭計《けんぼうきけい》の借拠みたいなものにしてしまって、下の者はまた、いつ不孝という名目のもとに殺されるかわからないので、日夕|兢々《きょうきょう》として、これ見よがしに大袈裟に親を大事にして、とうとう二十四孝なんて、ばからしい伝説さえ民間に流布《るふ》されるようになったのです。」
「それはしかし、言いすぎでしょう。二十四孝は、日本の孝道の手本です。ばからしい事はありません。」
「それでは、あなたは二十四孝は何と何だか、全部知っていますか。」
「それは知らないけれども、孟宗《もうそう》の筍《たけのこ》の話だの、王祥の寒鯉《かんごい》の話だの、子供の頃に聞いて僕たちは、その孝子たちを、本当に尊敬したものです。」
「まあ、あんな話は無難だけれども、あなたは、老莱子《ろうらいし》の話など知らないでしょう? 老莱子が七十歳になっても、その九十歳だか百歳だかの御両親に嬰児《えいじ》の如く甘えていたという話です。知らないでしょう? その甘えかたが、念いりなのです。常に赤ちゃんの着る花模様のおべべを着て、でんでん太鼓など振って、その九十歳だか百歳だかの御両親のまわりを這《は》いまわって、オギャアオギャアと叫び、以《もっ》て親の心を楽しましめたり、とあります。どうですか、これは。僕は、子供の頃、それを、絵本で教えられたけれども、その絵はたいへん奇怪なものでした。七十の老人が、赤ちゃんのおべべを着て、でんでん太鼓を振りまわしている図は、むしろ醜悪で、正視にたえないものです。親がそれを見て、果して可愛いと思うでしょうか。僕が幼時に見た絵本では、その百歳だか九十歳だかの御両親は、つまらなそうな顔をしていました。困ったものだというような顔をして、その七十歳の馬鹿息子の狂態を眺めていました。そうです。Wahnwitz です。正気の沙汰ではありません。また、こういうのもあります。郭巨《かくきょ》という男は、かねがね貧乏で、その老母に充分にごはんを差し上げる事が出来ないのを苦にしていた。郭巨には妻も子もある。その子は三歳だというのです。或る時、老母と言っても、その三歳の子から言えばおばあさんですね、そのおばあさんが、三歳の孫に、ご自分のお碗《
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