っぱり涙を流している。それを見たら、なおさら私は泣きたくなって、廊下に飛び出し、思いきりひとりで泣いて、それから涙を拭いて立見席にかえり、周さんの肩をぽんと叩《たた》いた。
「ああ、」と周さんは私の顔を見て笑いながら手の甲で涙を拭き、「あなたは、さっきから?」
「ええ、この幕のはじめから見ていました。あなたは?」
「僕も、そうです。この芝居は、どうも、子供が出て来るので、つい泣いてしまいますね。」
「出ましょうか。」
「ええ。」
周さんは私と一緒に松島座を出た。
「風邪をひいたとか、津田さんから聞きましたけど。」
「もう、あなたにまで宣伝しているのですか。津田さんには、困ります。僕が少し咳《せき》をしたら無理矢理寝かせて、そうして、Lunge だと言うのです。僕があの人をお誘いしないで、ひとりで松島へ行ったので、それで怒っているのです。あの人こそ、Kranke です。Hysterie ですね。」
「そんならいいけど、でも、少しは、からだ工合を悪くしたんでしょう?」
「いいえ。Gar nicht です。寝ていよと言うので、きのうときょう寝ながら本を読んでいたのですが、退屈でたまらなくなって、こっそり逃げ出して来たのです。あしたから、学校へ出ます。」
「そうですね。津田さんの言う事なんかを、いちいちはいはいと聞いていたんじゃ、そのうち本当の肺病になってしまいますよ。いっそ、下宿をかえたらどうですか。」
「ええ、それも考えているのですが、そうすると、あの人が淋《さび》しがるでしょう。ちょっとうるさいけれども、しかし、正直なところもあって、僕は、そんなにきらいでないんです。」
私は赤面した。津田氏よりも私のほうが、もっとやきもちやきなのかも知れないと思ったからである。
「寒くありませんか?」と私は、話頭を転じた。「お蕎麦でも、たべましょうか。」
いつのまにか、東京庵の前まで来ていた。
「宮城野のほうがいいかしら。津田さんの説に拠ると、この東京庵の天ぷら蕎麦は、油くさくて食えないそうです。」
「いや、宮城野の天ぷらだって油くさいでしょう。油くさくない天ぷらは、にせものです。」周さんも僕と同様、あまり食通ではないようであった。
私たちは東京庵にはいった。
「その油くさい天ぷら蕎麦をたべてみましょう。」と周さんは、少からずその油くさい天ぷらに興味を感じている様子であった。
「ええ、そうしましょう。案外、おいしいような予感がしますね。」
天ぷら蕎麦とお酒を注文した。
「お国は、料理の国だそうですから、日本へ来ても、たべものがお粗末で困るでしょうね。」
「そんな事はありません。」と周さんは、まじめな顔をして首を振った。「料理の国だなんて、それは支那へ遊びに来る金持の外国人の言いはじめた事です。あの人たちは、支那を享楽《きょうらく》しに来るのです。そうして自分の国へ帰れば、支那通というものになる。日本でも、支那通と言われている人は、たいてい支那に対するひとりよがりの偏見を振りまわして生きています。通人というのは、結局、現実から遊離した卑怯《ひきょう》な人ですね。支那でおいしい所謂《いわゆる》支那料理を食べているのは、少数の支那の大金持か、外国の遊覧客だけです。一般の民衆は、ひどいものを食べています。日本だってそうでしょう? 日本の旅館のごちそうを、日本の一般の家庭では食べていない。外国の旅行者は、それでも、その旅館のごちそうを、日本の日常の料理だと思って食べている。支那は決して、料理の国ではありません。僕は東京へ来て、八丁堀《はっちょうぼり》の偕楽園《かいらくえん》や、神田の会芳楼などで、先輩から、所謂支那料理を饗応《きょうおう》された事がありますが、僕は生れてはじめて、あんなおいしいごちそうを食べました。僕は日本へ来て、料理がまずいなどと思った事は一度もありません。」
「でも、とろろ汁は?」
「いや、あれは特別です。しかし津田式調理法を習得してから、どうにか、食べられるようになりました。おいしいです。」
お酒が出た。
「日本の芝居はどうです。面白いですか。」
「僕には、日本の風景よりも、芝居のほうが、ずっとわかりいい。実は、先日の松島の美も、僕にはあまりわからなかったのです。僕はどうも風景に対しては、あなたと同様に、」と言いかけて口ごもった。
「イムポテンツですか?」と私は無遠慮に言い放った。
「ええ、まあ、そうです。」と面《おも》はゆいみたいに眼をぱちぱちさせ、「絵は子供の時から大好きでしたが、風景は、それほど好きではありません。もう一つ苦手は、音楽。」
私は噴き出した。松島に於ける、れいの、雲よ雲よの唱歌をとたんに思い出したからである。
「でも、日本の浄瑠璃《じょうるり》などは?」
「ええ、あれは、きらいでありません。あれは音
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