楽というよりは、Roman ですものね。僕は俗人のせいか、あまり高尚な風景や詩よりも、民衆的な平易な物語のほうが好きです。」
「松島よりも松島座、ですか。」私は田舎者のくせに、周さんの前では、こんな駄洒落《だじゃれ》みたいなものを気軽に飛ばす事が出来た。「このごろ仙台で活動写真がひどく人気があるようですが、あれは、どうです。」
「あれは、東京でもちょいちょい見ましたが、僕は、不安な気がしました。科学を娯楽に応用するのは危険です。いったいに、アメリカ人の科学に対する態度は、不健康です。邪道です。快楽は、進歩させるべきものではありません。昔、ギリシャで、絃《げん》を一本ふやした新式の琴を発明した音楽家を、追放したというじゃありませんか。支那の『墨子《ぼくし》』という本にも、公輸という発明家が、竹で作った鵲《かささぎ》を墨子に示して、この玩具《おもちゃ》は空へ放つと三日も飛びまわります、と自慢したところが、墨子は、にがい顔をして、でもやっぱり大工が車輪を作る事には及ばない、と言ってその危険な玩具を捨てさせたと書いてあります。僕はエジソンという発明家を、世界の危険人物だと思っています。快楽は、原始的な形式のままで、たくさんなのです。酒が阿片《あへん》に進歩したために、支那がどんな事になったか。エジソンのさまざまな娯楽の発明も、これと似たような結果にならないか、僕は不安なのです。これから四、五十年も経つうちには、エジソンの後継者が続々とあらわれて、そうして世界は快楽に行きづまって、想像を絶した悲惨な地獄絵を展開するようになるのではないかとさえ思われます。僕の杞憂《きゆう》だったら、さいわいです。」
 そんな事を語りながら、「油くさい」天ぷら蕎麦を、おいしく食べて、私たちは東京庵を出た。お勘定はその時、どっちが払ったか、津田氏の忠告に従ったか、どうだったか、そこまでは、さすがにいまは記憶していない。私はその夜、周さんを荒町の下宿まで送って行く事にした。
 月が出ていた。それは、間違いなく記憶している。風景のイムポテンツ同士も、月影にだけは無関心でなかったようである。
「僕は、子供の時分から芝居が好きで、」と周さんは静かに語った。「いまでもはっきり覚えていますが、毎年、夏になると母の故郷に遊びに出掛け、その母の実家から船で一里ばかり行ったところに村芝居の小屋がかかっていて、――」
 日が暮れてから、豆麦の畑の間を通る河を篷船《ほうせん》に乗って出掛けるのだが、大人を交えず大勢の子供たちだけの見物で、船もその中で比較的大きい子供が順番に漕《こ》ぐのである。月光が河の靄《もや》に溶けて朦朧《もうろう》として、青黒い連山は躍《おど》り上った獣の背のように見え、遠くに漁火《いさりび》がきらめいているかと思うとまたどこからともなく横笛の音が哀れに聞える。舞台は河沿いの空地に立っていて、周さんたちは船を河にとどめ、その船の中にいたままで、幻のような五彩の小さい舞台面を眺めるのである。舞台では、長髯《ちょうぜん》の豪傑が四つの金襴《きんらん》の旗を背中にさして長槍《ちょうそう》を振りまわし、また、半裸体の男が幾人もそろって一斉にとんぼ返りを打ったり、小旦《わかおやま》が出て来て何か甲高《かんだか》い声で歌うかと思うと、赤い薄絹を身にまとった道化役が、舞台の柱にしばられて胡麻塩髯《ごましおひげ》の老人に鞭《むち》でひっぱたかれたりするのだ。やがて船は帰途についても、月はまだ落ちていず、河はいよいよ明るく、振り返って見ると舞台はやはり赤い燈火の下でマッチ箱くらいの大きさで何やらさかんに騒いでいる。
「月のいい夜には、時々それを思い出すのです。これがまあ、僕の唯一の風流な追憶でしょう。僕のような俗人でも、月光を浴びると、少しは sentimental になるようです。」
 私はその翌《あく》る日から、ほとんど毎日かかさず学校に出る事にした。周さんと逢っていろいろ話をしたいばかりに、そんな感心な心掛けになったのである。本当に、私のようなのんき坊主が、津田氏の予言に反して、落第もせずどうやら学校を卒業する事が出来たのも、考えてみると、全く周さんのおかげであった。いや、周さんと、もうひとり。藤野先生に対する私の思慕の情が、私自身を奮起させて落第生の不名誉から救ってくれたと言ってよいように思われる。
 その月光の夜から四、五日経って、何でも仙台に初雪が降った日だったと覚えている。私は学校の帰りに周さんを私の下宿に引っぱって来て、こたつにあたり、まんじゅうを食べながらいろいろ話をして、そのうちに周さんは、妙な笑いを顔に浮べて、周さんの鞄《かばん》からノオトを一冊取り出して私のほうにのべて寄こした。見ると、藤野先生の解剖学のノオトである。
「ひらいてごらん。」周さんは笑い
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