道義、とでも言うべき底流は、いつでも、どこかで生きているはずです。そうしてその根柢の道において、私たち東洋人全部がつながっているのです。共通の運命を背負っていると言っていいのでしょう。さっき話した家族みたいに、どんなに各人各様に咲いたつもりでも、やっぱり一つの大きい花になるのだから、それを信じて周君とも大いに活溌《かっぱつ》に交際する事ですね。何もむずかしく考える事はない。」先生は笑いながら立ち上り、「一口で言えるやないか? 支那の人を、ばかにせぬ事。それだけや。」
 始業のベルが、さっきから鳴っているのである。
「教育|勅語《ちょくご》に、何と仰せられています? 朋友《ほうゆう》相信じ、とありましたね。交友とは、信じ合う事です。他には何も要りません。」
 私は駈寄《かけよ》って先生と握手したい衝動にかられたが、怺《こら》えて、ていねいにお辞儀をしたとたんに、
「君の顔は、あまり見かけないようだが、私の講義に出た事がありますか。」
「はあ、」と私は泣き笑いの表情で、「あの、これから。」
「新入生ですね。まあ、みんな、はげまし合ってやってくれ給え。津田君には、私からもよく言っておきます。私も、どうもクラス会で、不要の出しゃばりの事を言った。これからは、不言実行、という事にしましょう。」
 私は廊下に走り出て、ほっと一息つき、なるほど、あれでは、周さんが褒《ほ》めるわけだ、先生も偉いが、周さんも眼が高い、と先生と周さんに半分ずつ感心した。自分もこれから周さんに負けずに先生の崇拝者になろう、先生の講義の時には、必ず最前列の席に陣取ってノオトをとろう、周さんはきょう学校に出ているかしら。私は一刻も早く周さんと逢いたくなって、いそいで教室に行ってみたが、その日も、周さんの姿は見えなくて、そうして、津田氏のいやな眼が、ぎろりと光っていた。けれども私は、何だかもう寛大な気持になっていたので、少し笑って会釈《えしゃく》してやった。津田氏もそんなに悪い人ではないらしい。ちょっとまごついて、それから、にやりと笑って会釈をかえした。でも、その日は一日、互いに避けるようにして、すすんで話合おうとはしなかった。放課後、周さんの病気というのはどの程度のものなのか、見舞いに行ってみたかったが、周さんの下宿が、はっきりわからなかったし、それに、同じ下宿にいる津田氏にまたたいへんな説教をされてもつまらないと思ってまっすぐに私の下宿にかえり、夕食後、ぶらりと宿を出て、東一番丁に行き、松島座で中村|雀三郎《じゃくさぶろう》一座が先代萩《せんだいはぎ》をやっていたので、仙台の先代萩はどんなものかしらという興味もあり、ちょっと覗《のぞ》いてみたくなって立見席にはいった。先代萩というのは、ご存知の如く仙台の伊達藩《だてはん》のお家騒動らしいものを扱った芝居で、榴《つつじ》ヶ岡《おか》の近くに政岡《まさおか》の墓と称せられるものさえある程だから、この芝居も昔から仙台ではさだめし大受けであったろうと思っていたが、あとで人から聞いたところに依《よ》ると、それは反対で、この芝居は、旧藩時代にはこの地方では御法度物《ごはっともの》だったそうで、維新後になって、その禁制もおのずから解けて自由に演じて差支《さしつか》え無くなったとはいうものの、それでも、仙台市内では永くこの芝居は興行せられず、時たま題をかえて演ぜられる事があっても、その都度、旧藩士と称する者が太夫元に面会を申し込み、たとえ政岡という烈婦が実在していたとしても、この芝居全体の仕組みは、どうも伊達家の名誉を毀損《きそん》するように出来ている、撤回せよ、と厳重な抗議を申し込んだものだそうであるが、さすがに明治の中ごろになったらそんな事はなくなり、同時に、仙台の観衆もまた、この芝居を、自分スちの旧藩の事件を取扱った芝居だからと特別の好奇心で見に来るという事もなくなって、もうそのころから、どこの国の事件だかまるで無関心、ふつうのあわれなお芝居として、みんな静かに見物しているだけというような有様になったらしい。けれども、当時、私はそんな事情はまだ知らなかったので、仙台の観客たちは、この先代萩を見てどんなに興奮しているだろう、とその熱狂振りを見たいという期待もあって小屋にはいったのであるが、観客は案外に冷静、しかもやっと五、六|分《ぶ》の入《い》りなので、おやおやと思う一方また、さすがは大仙台の市民だ、自分のお国の事件が演ぜられているのに平気な顔して見物している、これが大都会の襟度《きんど》というものかも知れないなどと、山奥の田舎から出て来たばかりの赤毛布《あかげっと》は、妙なところに感心したりして、そうして、雀三郎の政岡の「とは言うものの、かわいやな」という愁歎場《しゅうたんば》を見て泣き、ふと傍を見ると、周さんが立っている。や
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