いせに、あんな無意味な騒ぎ方をしているのではないかしらと疑いたくさえなった程で、とにかく、藤野先生の講義そのものは、決して私の予期していたような春風|駘蕩《たいとう》たるものではなく、痛々しいくらいに、まじめで、むきなものであった。もっとも、痛々しいという感じは、特に私ひとりだけに強く響いたものかも知れない。というわけは、この先生は、その講義に於いてずいぶんご自分の言葉使いに気をくばっておいでの様子で、私もまた自分の言葉の田舎訛《いなかなま》りにはかねがね苦労させられているので、他人のそんな気持には敏感に同情できて、そのせいもあって、特に痛々しいなどと感じたのかも知れなかった。先生は、ひどい関西訛りであった。それを隠そうと、なみなみならぬ努力をしておられるようであったが、異国人の周さんにさえ、特徴のある語調だと看破されているくらい、やっぱりその講義には、かなりの関西訛りがまじっていた。かくの如く観じ来れば、後に到《いた》って、この藤野先生と周さんと私と三人が結んだあの親密な同盟も、何の事は無い、日本語不自由組の同気相求めた結果のものに過ぎなかったのではないか、と情け無い気持にもなるが、しかし、それは、あまりにもふざけた冗談の推論かも知れない。当時、私は自分の田舎訛りを非常に気にしていたのは事実であるから、それは、たしかに周さんとの出会《であい》の当初に於いても、共感を生ぜしめた卑近なきっかけの一つになったのは前にも幾度となく、くどいくらいに念を押して説明して来たとおりで、そのことに就いてはいまも決して否定しようとは思わぬが、しかし、それから後に到っても、私たちは、ただそんな卑俗の理由ひとつだけで結ばれていたわけでは断じて無いのだ、とすこし大きく出たい気持も現在の私には有るのである。然《しか》らば、その他の高遠な理由というのは、何であるか。それは実のところ、私にもはっきりわかっていないのである。何であるか、一口には言えないのであるが、とにかく、「ウマが合った」という説明も、周さんと私と若い者同士が、ふっと互いに打ち解け合う事に使用されてこそ自然な感じがするものの、この二人の交友に、さらに藤野先生が加った時、「ウマが合った」など失礼な俗語で説明しようとしても、それだけでは追いつかぬように思われる。事実、それから後に於ける私たち三人の同盟には、そんな、日本語不自由組だの「
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