白になる事だ。それだけだ。支那の杉田玄白になって、支那の維新の狼煙《のろし》を挙げるのだ。
あの松島の旅館で、当時二十四歳の留学生、周さんは、だいたい以上のような事情を私に打明けて聞かせてくれたのであるが、もちろんその夜、周さんがひとりでこんなに長々と清国の現状やら自身の生立《おいた》ちやらを順序を追って講演したというわけではなく、お酒を少し飲んだりして私と夜明け近くまで語り合ったさまざまの事柄を綴《つづ》り合せ、それにまた私が後に得た知識をも多少補足して、以上の如くまとめ上げてみたのである。とにかく、私はあの夜、周さんの打明け話を聞いて、かなり感動した。私みたいに、ただ、親が医者だから、その総領息子《そうりょうむすこ》の自分もまた医者、というようないい加減な気持で医専に入学したのではなく、さすがに、はるばる海を越えてやって来た人には、やっぱりそれだけの、深い事情と、すぐれた決意とが秘められているものだと唸《うな》るほど感心し、この異国の秀才に対して大いに尊敬をあらたにし、何とかしてこの人の高邁《こうまい》の目的を完遂させてやりたいと、そのくせ何の助力も出来ないくせに、義気さかんに起るを覚えたものである。周さんは、私を、周さんの弟さんに似ていると言っていたし、また、私のほうでは、周さんと逢って話をしている時だけは、自分のれいの言葉の訛《なま》りに就《つ》いての苦慮から解放されるという秘密のよろこびがあって、そんな事が二人の親しい友交を成立させたとも考えられるが、しかし、そんなにいちいち理由らしいものを取上げて言うまでも無く、ただ、俗に呼称する「ウマが合った」とかいう小さい奇蹟《きせき》は、国籍を異にしている人の間にもたまたま起り得る現象なのかも知れない。けれども、この日本三景の一の松島海岸で不思議に結ばれた孤独者同士の何の駈引《かけひき》も打算も無い謂《い》わば頗《すこぶ》る鷹揚《おうよう》な交友にも、時々へんな邪魔がはいった。純粋に二人きりの、のんきな交友など、この世に存在をゆるされないものかも知れない。必ず第三者の牽制《けんせい》やら猜疑《さいぎ》やら嘲笑《ちょうしょう》やらが介入するもののようである。その松島の宿で互いに遠慮を忘れ、思う事を語って笑い、翌《あく》る日、一緒に汽車で仙台に帰り、ではまたあした学校で、どうも、いろいろ有難う、いや僕こそ、と意外に楽
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