したというのじゃないかとさえ考えられます。」
「それは、あなたがこの国土を愛し過ぎているから、そんな不満を感じるのです。僕は浙江省《せっこうしょう》の紹興《しょうこう》に生れ、あの辺は東洋のヴェニスと呼ばれて、近くには有名な西湖もあり、外国の人がたいへん多くやって来て、口々に絶讃するのですが、僕たちから見ると、あの風景には、生活の粉飾が多すぎて感心しません。人間の歴史の粉飾、と言ったらいいでしょうか。西湖などは、清国政府の庭園です。西湖十景だの三十六|名蹟《めいせき》だの、七十二勝だのと、人間の手垢《てあか》をベタベタ附けて得意がっています。松島には、それがありません。人間の歴史と隔絶されています。文人、墨客《ぼっかく》も之《これ》を犯す事が出来ません。天才芭蕉も、この松島を詩にする事が出来なかったそうじゃありませんか。」
「でも、芭蕉は、この松島を西湖にたとえていたようですよ。」
「それは、芭蕉が西湖の風景を見た事が無いからです。本当に見たら、そんな事を言う筈《はず》はありません。まるで、違うものです。むしろ舟山列島に似ているかも知れません。しかし、浙江海は、こんなに静かではありません。」
「そうですかねえ。日本の文人、墨客たちは、昔から、ずいぶんお国の西湖を慕っていて、この松島も西湖にそっくりだというので、遠くから見物に来るのです。」
「僕も、それは聞いていました。そう聞いていたから、見に来たのです。しかし、少しも似ていませんでした。お国の文人も、早く西湖の夢から醒《さ》めなければいけませんね。」
「しかし、西湖だって、きっといいところがあるのでしょう。あなたもやはり、故郷を愛しすぎて、それで点数がからくなっているのでしょう。」
「そうかも知れません。真の愛国者は、かえって国の悪口を言うものですからね。しかし、僕は所謂《いわゆる》西湖十景よりは、浙江の田舎《いなか》の平凡な運河の風景を、ずっと愛しています。僕には、わが国の文人墨客たちの騒ぐ名所が、一つとしていいと思われないのです。銭塘《せんとう》の大潮は、さすがに少し興奮しますが、あとは、だめです。僕は、あの人たちを信用していないのです。あの人たちは、あなたの国でいう道楽者と同じです。彼等は、文章を現実から遊離させて、堕落させてしまいました。」
山から降りて海岸に出た。海は斜陽に赤く輝いていた。
「わるくない
前へ
次へ
全99ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング