かし、周さんにはいまのところ、むつかしい思想の著述はおぼつかないので、まず民衆に対する初歩教育のつもりで文芸に着目し、ただいま世界各国の文芸を研究しています、なんて、そんな、先生にとっては全く寝耳に水のような実状を打明けたら、先生は、どんなに驚愕《きょうがく》し、また淋《さび》しいお気持になられるかと思えば、愚直の私も、さすがに言葉を濁《にご》さざるを得なかったのである。それでも私は、いちどだけ、周さんに先生の御心配をそれとなく伝言してみた事がある。
「こんど藤野先生から、研究のテエマをもらって、一緒にやってみませんか。纏足《てんそく》の骨形状など、面白いんじゃないでしょうか。」
周さんは、幽《かす》かに笑って、首を振った。すでに、一さいを察しているようであった。その頃の周さんは、あの夏休み直後の、ひやりとするくらいの、へんに底意地の悪いような表情はしなくなっていたが、それでも、何か私たちと隔絶された世界に住んでいる人みたいに、たいていはただあいまいに微笑して、それに就いてまた、あの苦労性の津田氏など気をもんで、
「あいつ、どうかしているんじゃないか。下宿でも、つまらない小説本ばかり読んで、学校の勉強は、ちっともしていないんだぜ。あいつも、いよいよ革命の党員になったか、いや、それとも、失恋かな? とにかく、あんな工合じゃ、いけない。こんどは、落第するかも知れない。あいつは清国《しんこく》政府から選ばれて、日本に派遣《はけん》されて来た秀才だ。日本は、あいつに立派な学問を教え込んでやって帰国させなければ、清国政府に対して面目が無い。僕たち友人の責任も、だから、重大なんだよ。あいつは、どうもこのごろ僕を馬鹿にしているらしくて、僕がさまざまの忠告を試みても、ただ黙ってにやにや笑っている。薄気味が悪くなった。お前の言う事なら、きくかも知れない。いつか、思い切ってこっぴどくやっつけてやったら、どうだい。眼を覚ませ! と言って鉄拳《てっけん》でも加えてやると、心を改めて勉強するようになるかも知れない。」
私は、この手記の二、三箇所において、津田氏を嘲笑するような筆致を弄《ろう》した事を、いまは後悔している。よく考えてみると、周さんを最も愛していたのは、この津田氏ではなかったかしら、というような気さえして来る。いよいよ周さんと別れなければならなくなって、そのささやかな内輪の送
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