たのではあるまいか。もとより之《これ》は、私の俗な独断である。ひとの心裡の説明は、その御当人にさえうまく出来ないものらしいし、まして私のような鈍才無学の者には、他人の気持など、わかりっこないのであるが、しかし、巷説《こうせつ》の魯迅の転機は、私にはどうしても少し腑《ふ》に落ちないところがあるので、敢《あ》えて苦手の理窟を大骨折りで述べて見た次第である。
その大雪の夜から、ひとつきほど経って、たしかあれは明治三十九年のお正月頃の事だったように思う。そのころ、周さんが一週間ばかり教室に顔を見せなかった事があったので、津田氏に聞くと、おなかをこわして寝ているという。それで私は、学校からの帰り、周さんの下宿にお見舞いに立寄ってみた。周さんは、いくらか病人らしい青い顔をしていたが、私が行くとすぐ起きて、私の制止も聞かずにさっさと蒲団《ふとん》を畳み、
「なに、もういいのです。津田ドクトルのお見立てでは、Pest の疑いがあり、絶望を宣告されたのですが、非常な誤診でした。お正月に数の子を食べすぎただけなんです。日本は、どうも、お正月にはかえって数の子だの豆だの、わざと粗末なたべものばかりで祝うのですからね、痛快な国ですよ。」
私は机辺に散らばっているたくさんの書籍を見渡した。ほとんど全部が、文芸の書である。独逸《ドイツ》のレクラム本が最も多かったが、また日本の森鴎外、上田敏、二葉亭四迷《ふたばていしめい》などの著作物もまじっていた。
「文芸は、どこの国のがいいのですか?」と私は周さんと向き合って炬燵《こたつ》にもぐり、れいの如く愚問を発した。
「さあ、」と周さんは、その日はひどく快活に、「文芸はその国の反射鏡のようなものですからね、国が真剣に苦しんで努力している時には、その国から、やはりいい文芸が出ているようです。文芸なんて、柔弱男女のもて遊びもので、国家の存廃には何の関係も無いように見えながら、しかし、これが的確に国の力をあらわしているのですからね。無用の用、とでも言うのでしょうか、馬鹿にならんものですよ。僕は、エジプトやインドの文芸はどんなものだか知りたくて、ずいぶん東京のあちこちの本屋へ行って捜してみたのですが、一冊も見つかりませんでした。インドなどは、支那《しな》なんかより、もっと古い文明のあった国なのですから、いま誰かひとり、民族の誇りに眼覚めて、他民族の圧迫に
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