まに竹藪《たけやぶ》にはいってしまうのではないか、と、いや、これは僕のひねくれた妄想に違いないと思うのですが、僕はもう、三民主義とはどんなものだか、それさえわからなくなって来ました。しかし、あの人たちの情熱だけは信じなければならぬ。いや、尊敬しなければならぬ。あの人たちは、自国を独立の危機から救うため命がけで叫んでいるのだ。僕の生きる道も、あの人たちと歩調を合わせて駈《か》けまわるより他にないのでしょう。僕は革命の党員ではないけれども、卑怯《ひきょう》な男ではありません。僕はあの人たちと一緒にいつでも死ぬ覚悟を持っています。僕の船の舵《かじ》は、僕がそれを望むか望まぬかに拘《かかわ》らず、もう既に一定の方角に向って釘《くぎ》づけにされてしまっているようにも思われる。僕は、いまはあの人たちの何か役にたたなければならぬ。それには、まず、どうしたらいいか、と思うと、たちまち、また憂鬱な竹藪が眼前に現出して来るのです。あの人たちは僕を、民族の裏切者と言っています。日本カブレと言っています。しかし、僕には、あの人たちこそ民族を裏切らなかったら、さいわいだと思っています。つまり、僕には政治がわからないのでしょう。僕には、党員の増減や、幹部の顔ぶれよりも、ひとりの人間の心の間隙《かんげき》のほうが気になるのです。はっきりと言えば、僕はいま、政治よりも教育のほうに関心を持っているのです。それも、高級な教育ではありません。民衆の初歩教育です。僕には独自な哲学も宗教もありません。僕の思想は貧弱です。僕は、ただ僕の一すじに信じている孫文の三民主義を、わかり易く民衆に教えて、民族の自覚をうながしてやりたい。まあ、考えつめると、僕があの人たちの仲間としてわずかでもお役に立ち得るのは、そんな極めて低い仕事に於いてだけだというような気がして来るのです。しかし、これだって、僕のような無能者には決して楽な仕事ではありません。僕は一個の医者には、まあ皆から助けられて、どうやらなれるかも知れませんが、教育者は、どうでしょうか。民衆の教育には、日本の維新の例を見ても、著述に依るのが、最も効果的のようですが、しかし、僕の文章は、まるで、なっていません。支那の杉田玄白よりも、支那の頼山陽になるのは、僕には百倍も、むつかしいような気がします。結局、政治家も医者も教育者も、何もかも全部僕にはおぼつかなくて、きょう
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