らないと思ってまっすぐに私の下宿にかえり、夕食後、ぶらりと宿を出て、東一番丁に行き、松島座で中村|雀三郎《じゃくさぶろう》一座が先代萩《せんだいはぎ》をやっていたので、仙台の先代萩はどんなものかしらという興味もあり、ちょっと覗《のぞ》いてみたくなって立見席にはいった。先代萩というのは、ご存知の如く仙台の伊達藩《だてはん》のお家騒動らしいものを扱った芝居で、榴《つつじ》ヶ岡《おか》の近くに政岡《まさおか》の墓と称せられるものさえある程だから、この芝居も昔から仙台ではさだめし大受けであったろうと思っていたが、あとで人から聞いたところに依《よ》ると、それは反対で、この芝居は、旧藩時代にはこの地方では御法度物《ごはっともの》だったそうで、維新後になって、その禁制もおのずから解けて自由に演じて差支《さしつか》え無くなったとはいうものの、それでも、仙台市内では永くこの芝居は興行せられず、時たま題をかえて演ぜられる事があっても、その都度、旧藩士と称する者が太夫元に面会を申し込み、たとえ政岡という烈婦が実在していたとしても、この芝居全体の仕組みは、どうも伊達家の名誉を毀損《きそん》するように出来ている、撤回せよ、と厳重な抗議を申し込んだものだそうであるが、さすがに明治の中ごろになったらそんな事はなくなり、同時に、仙台の観衆もまた、この芝居を、自分スちの旧藩の事件を取扱った芝居だからと特別の好奇心で見に来るという事もなくなって、もうそのころから、どこの国の事件だかまるで無関心、ふつうのあわれなお芝居として、みんな静かに見物しているだけというような有様になったらしい。けれども、当時、私はそんな事情はまだ知らなかったので、仙台の観客たちは、この先代萩を見てどんなに興奮しているだろう、とその熱狂振りを見たいという期待もあって小屋にはいったのであるが、観客は案外に冷静、しかもやっと五、六|分《ぶ》の入《い》りなので、おやおやと思う一方また、さすがは大仙台の市民だ、自分のお国の事件が演ぜられているのに平気な顔して見物している、これが大都会の襟度《きんど》というものかも知れないなどと、山奥の田舎から出て来たばかりの赤毛布《あかげっと》は、妙なところに感心したりして、そうして、雀三郎の政岡の「とは言うものの、かわいやな」という愁歎場《しゅうたんば》を見て泣き、ふと傍を見ると、周さんが立っている。や
前へ
次へ
全99ページ中52ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング