行くならば、帳面が何冊あつても足りないくらゐであつた。才之助は絶望した。
「お前のおかげで、私もたうとう髪結ひの亭主みたいになつてしまつた。女房のおかげで、家が豊かになるといふ事は男子として最大の不名誉なのだ。私の三十年の清貧も、お前たちの為に滅茶滅茶にされてしまつた。」と或る夜、しみじみ愚痴をこぼした。黄英も、流石に淋しさうな顔になつて、
「私が悪かつたのかも知れません。私は、ただ、あなたの御情にお報いしたくて、いろいろ心をくだいて今まで取計つて来たのですが、あなたが、それほど深く清貧に志して居られるとは存じ寄りませんでした。では、この家の道具も、私の新築の家も、みんなすぐ売り払ふやうにしませう。そのお金を、あなたがお好きなやうに使つてしまつて下さい。」
「ばかな事を言つては、いけない。私ともあらうものが、そんな不浄なお金を受け取ると思ふか。」
「では、どうしたら、いいのでせう。」黄英は、泣声になつて、「三郎だつて、あなたに御恩報じをしようと思つて、毎日、菊作りに精出して、はうばうのお屋敷にせつせと苗をおとどけしてはお金をまうけてゐるのです。どうしたら、いいのでせう。あなたと私たちとは、まるで考へかたが、あべこべなんですもの。」
「わかれるより他は無い。」才之助は、言葉の行きがかりから、更に更に立派な事を言はなければならなくなつて、心にもないつらい宣言をしたのである。「清い者は清く、濁れる者は濁つたままで暮して行くより他は無い。私には、人にかれこれ命令する権利は無い。私がこの家を出て行きませう。あしたから、私はあの庭の隅に小屋を作つて、そこで清貧を楽しみながら寝起きする事に致します。」ばかな事になつてしまつた。けれども男子は一度言ひ出したからには、のつぴきならず、翌る朝さつそく庭の隅に一坪ほどの掛小屋を作つて、そこに引きこもり、寒さに震へながら正座してゐた。けれども、二晩そこで清貧を楽しんでゐたら、どうにも寒くて、たまらなくなつて来た。三晩目には、たうとう我が家の雨戸を軽く叩いたのである。雨戸が細くあいて、黄英の白い笑顔があらはれ、
「あなたの潔癖も、あてになりませんわね。」
 才之助は、深く恥ぢた。それからは、ちつとも剛情を言はなくなつた。墨堤の桜が咲きはじめる頃になつて、陶本の家の建築は全く成り、さうして才之助の家と、ぴつたり密着して、もう両家の区別がわからな
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