いやうになつた。才之助は、いまはそんな事には、少しも口出しせず、すべて黄英と三郎に任せ、自分は近所の者と将棋ばかりさしてゐた。一日、一家三人、墨堤の桜を見に出かけた。ほどよいところに重箱をひろげ、才之助は持参の酒を飲みはじめ、三郎にもすすめた。姉は、三郎に飲んではいけないと目で知らせたが、三郎は平気で杯を受けた。
「姉さん、もう私は酒を飲んでもいいのだよ。家にお金も、たくさんたまつたし、私がゐなくなつても、もう姉さんたちは一生あそんで暮せるでせう。菊を作るのにも、厭きちやつた。」と妙な事を言つて、やたらに酒を飲むのである。やがて酔ひつぶれて、寝ころんだ。みるみる三郎のからだは溶けて、煙となり、あとには着物と草履だけが残つた。才之助は驚愕して、着物を抱き上げたら、その下の土に、水々しい菊の苗が一本生えてゐた。はじめて、陶本姉弟が、人間でない事を知つた。けれども、才之助は、いまでは全く姉弟の才能と愛情に敬服してゐたのだから、嫌厭の情は起らなかつた。哀しい菊の精の黄英を、いよいよ深く愛したのである。菊の苗は、わが庭に移し植ゑ、秋にいたつて花を開いたが、その花は薄紅色で幽かにぽつと上気して、嗅いでみると酒の匂ひがした。黄英のからだに就いては、「亦他異無し。」と原文に書かれてある。つまり、いつまでもふつうの女体のままであつたのである。



底本:「太宰治全集第四巻」筑摩書房
   1989(平成元)年12月15日初版第1刷
入力:八巻美惠
1999年1月1日公開
2004年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全10ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング