は、再び隣家と絶交しようと思ひはじめた。或る日、三郎が真面目な顔をしてやつて来て、
「姉さんと結婚して下さい。」と思ひつめたやうな口調で言つた。
 才之助は、頬を赤らめた。はじめ、ちらと見た時から、あの柔かな清らかさを忘れかねてゐたのである。けれども、やはり男の意地で、へんな議論をはじめてしまつた。
「私には結納のお金も無いし、妻を迎へる資格がありません。君たちは、このごろ、お金持ちになつたやうだからねえ。」と、かへつて厭味《いやみ》を言つた。
「いいえ、みんな、あなたのものです。姉は、はじめから、そのつもりでゐたのです。結納なんてものも要りません。あなたが、このまま、私の家へおいで下されたら、それでいいのです。姉は、あなたを、お慕ひ申して居ります。」
 才之助は、狼狽を押し隠して、
「いや、そんな事は、どうでもいい。私には私の家があります。入《い》り婿《むこ》は、まつぴらです。私も正直に言ひますが、君の姉さんを嫌ひではありません。はははは、」と豪傑らしく笑つて見せて、「けれども、入《い》り婿《むこ》は、男子として最も恥づべき事です。お断り致します。帰つて姉さんに、さう言ひなさい。清貧が、いやでなかつたら、いらつしやい、と。」
 喧嘩わかれになつてしまつた。けれどもその夜、才之助の汚い寝所に、ひらりと風に乗つて白い柔い蝶が忍び入つた。
「清貧は、いやぢやないわ。」と言つて、くつくつ笑つた。娘の名は、黄英《きえ》といつた。
 しばらくは二人で、茅屋に住んでゐたが、黄英は、やがてその茅屋の壁に穴をあけ、それに密着してゐる陶本の家の壁にも同様に穴を穿ち、自由に両家が交通できるやうにしてしまつた。さうして自分の家から、あれこれと必要な道具を、才之助の家に持ち運んで来るのである。才之助には、それが気になつてならなかつた。
「困るね。この火鉢だつて、この花瓶だつて、みんなお前の家のものぢやないか。女房の持ち物を、亭主が使ふのは、実に面目ない事なのだ。こんなものは、持つて来ないやうにしてくれ。」と言つて叱りつけても、黄英は笑つてゐるばかりで、やはり、ちよいちよい持ち運んで来る。清廉の士を以て任じてゐる才之助は、大きい帳面を作り、左の品々一時お預り申候と書いて、黄英の運んで来る道具をいちいち記入して置く事にした。けれども今は、身のまはりの物すべて、黄英の道具である。いちいち記入して
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